14

 次の日、フェヌグリークは夜明けの太陽が昇るよりも早くに目覚めてしまった。

 こんな状況で眠れる訳がないと言ったらそれまでだが、同じ狭い寝台で眠るミュゼは瞳を閉じたまま、まだ眠りについている。規則的な吐息は、フェヌグリークが暫く見ていても変わらない。

 姉妹は姉妹でひとつの寝台に。フェヌグリークとミュゼもひとつの寝台に寝ていた。これはそれぞれ姉妹一人ずつの寝台であったろうに、客人へと片方を譲り渡したからこそ成った不便だ。


「起きました?」


 声が聞こえて思わず肩を震わせる。

 声の主であるマゼンタは、そんな過剰とも言えるフェヌグリークの反応に苦笑を浮かべた。

 部屋の扉近くでは、オルキデが二人のやり取りを眺めていた。姉妹はもう着替えも終わって仕事着のようなエプロンを身に着けている。


「私ですよ。おはようございます、フェヌグリークさん」

「……お、は、よう……ございます」

「今から、私と姉で一階に行くんですけど。顔洗いに行きます? 洗面所案内しましょうか」


 同族と知れているから親身になってくれているであろうマゼンタの言葉だったが、フェヌグリークは不安を隠し切れずにいる。


 この女性だって、その気になったらフェヌグリークを殺せるのだ。




 フェヌグリークを洗面所に案内したオルキデとマゼンタは、そのまま酒場の清掃に入る。

 酷く汚れている訳ではない店内だが、オルキデはテーブルを最初に拭きまわり、マゼンタは箒とモップで丁寧に床を掃除する。テーブルの拭き掃除が終わったオルキデは、そのまま厨房の方へと入っていった。

 借り物の寝間着のまま洗顔を終えたフェヌグリークが客席に戻る頃には、外はうっすらと明るくなり始めている。そして見渡した店内のカウンターの中に、その人影を見つけて身を竦ませた。

 背中を過ぎる程の長さの白銀の髪、色素の薄い肌。白いシャツで腕組をして、背凭れの無い椅子に座ったまま足と腕を組んで目を閉じている男。

 マスター・ディル。二階から下りてきた時には居なかった気がするのに。

 彼はフェヌグリークに気付いているのかいないのか、瞼を伏せたまま身動ぎもしない。

 この男に気付かれるのが怖くて、椅子に座る事も、上に戻る事も出来ずにその場で固まってしまった。


「……ああ、もう良いのか」


 オルキデが厨房から出てきて、フェヌグリークに声を掛けた。それと同時にマスターが瞳を開く。

 フェヌグリークの胸に訪れたのは、不安と同量の安堵だ。誰に頼って良いのか分からない状態でも、この二人が同じ場所にいたら助けを求めたくなるのはオルキデの方だった。

 涙目のフェヌグリークを見て、オルキデもマスターの存在に気付く。ああ、と苦笑いしながら不安そうな表情に寄り添って、背中に手を添えて一番離れた席に座るように促した。


「朝食、用意してくる。少し待っててくれ」

「え、でも、その、あの」

「食事しないと体を壊す。簡単なものになるが、何も食べないよりはいいだろう」


 離れているとはいえ、同じ空間にあの男と二人きりという状態が耐えられそうにない。縋るようにオルキデを見つめるが、彼女も苦笑を浮かべるだけでその場を離れてしまった。

 マスター・ディルがフェヌグリークを見ている。

 それに気付いているから視線を向けられない。視線が絡んだら最後、息の根を止められそうな恐怖を覚えた。強く目を閉じて、唇を引き結んで、心の中で叫んだ。


 早く。

 早く。

 戻ってきて。

 早く。


 神に祈るのと同じくらいの熱心さで、オルキデへと願う。しかしその願いは少し違った形で叶った。

 階段を誰かが下りる音が聞こえる。その足音は軽く、しかし一人だけではないらしく幾つか聞こえた。話し声も聞こえるが、その声の主が誰かは分からない。

 やがて足音の主たちが下りてきた。茶色の髪を肩に付く程度までに延ばした女性と、ミュゼとは違う濃い金の長髪を持つ女性。下りてきたのはその二人だけのようだった。


「……あら?」


 金髪の女性が、フェヌグリークに気付いた。その声に反応して、茶髪の女性もフェヌグリークを見る。

 二人は新顔を、物珍しそうに暫く眺めた。


「こんな時間にお客様なんて珍しいですね? ……ねぇオルキデさん、この人どうしたんです?」

「その服でマゼンタさんかと思ったけど、違うわね」


 借り物の寝間着の事だろう。服が誰のものか分かるくらいには、この女性は酒場で暮らして長いのだろう。金髪の女性は厨房奥にオルキデがいると知っているのか声を投げる。……この空間にマスターが居ると分かっていて、だ。

 その女性二人は、特に敵意もなくフェヌグリークを見ている。単純に気になったから声をかけた、それだけの事が何故かこんなにも落ち着く。道に迷った時に、優しく声を掛けてくれた人が居た時のような。

 えと、あの、と、何を言えばいいか惑ったフェヌグリークだが、オルキデが奥から姿を現したのが見えて安堵する。


「アルカネットの妹だよ」

「アルカネットさんの? ……妹がいるなんて初耳なんですけれど」

「別に暮らしてるからな。ここに居る奴らは誰も自分の事を話したがらないし……」


 オルキデが、フェヌグリークの目の前に粥を出す。アルセン国で主食となっている麦ではなく、白い粒のそれは米だった。匙で掬って口に運ぶと、食感がこれまで食べてきた麦粥と違ってフェヌグリークが声に出さず驚いた。

 食事をするその姿を眺めながら、オルキデが状況を説明する。


「昨日、アルカネットとヴァリンさ………ヴァリンが連れ帰って来た。もう一人いるぞ」

「もう一人?」

「………ヴァリンさんが……?」


 金髪の女性はもう一人の存在が気になったようだが、茶髪の女性はその名前に過剰反応した。顔を顰めて身を竦ませる。その反応に苦笑するのはオルキデだった。


「そうか、ジャスミンは彼が苦手だものな」

「え……ええ、苦手、っていうか……その」


 まごまごしながらはっきり物を言いたがらない彼女を置いて、金髪の女性はマスター・ディルの側まで近づいた。それから、手に持っていたらしい小瓶をカウンターの上に置く。

 中に何が入っているかは、フェヌグリークからは見えない。マスターはそれを手に取る事はない。代わりに、カウンターの中に少し身を屈ませてから革袋を取った。重い音をさせた袋を、小瓶の隣に置く。


「今回分だ」

「どうも」


 労いの言葉も無く、ただ一言を口にするだけ。

 金髪の女性はそれを手にして、再びフェヌグリークの近くに寄った。


「ジャス、後で半分こしましょ」

「今回は三分の一でいいわよ、殆どイルがやった事じゃない」


 交わされたのは短い会話だけだ。けれど、会話の中に見える言葉の意味は、フェヌグリークを再び震え上がらせる。

 袋の中身は、音から金銭だと気付ける。かなりの金額が中に入っているであろうその革袋をポンと渡せるくらいの女性二人だ。この酒場の裏の顔を知っていたら、その金が意味するところを知らされているようなもの。

 多額の金額を動かせるだけの仕事を、二人も受けている。だとすると、その仕事とは。


「フェヌグリーク、紹介するよ。ユイルアルトとジャスミンだ。このギルドで医者として薬を用立てて貰っている」


 フェヌグリークの恐れを少しでも軽く出来るように、オルキデが二人の名前と職業を紹介した。

 茶髪の女性が頭を下げる。ジャス、ともう一人に呼ばれていた彼女は体が細く、長袖のシャツワンピースとズボンから僅かに覗く素肌は骨ばっていて余計な肉付きどころか必要であろう脂肪さえ殆ど無さそうだ。

 もう一人のイルと呼ばれていた女性がユイルアルト。フェヌグリークがそれを理解するが、彼女の興味は今はフェヌグリークから外れていた。窓も席も無い壁に向かって顔を向けていて、それが何なのか気になって視線を向ける。


「………?」


 何か小さい、丸い球体が見えた気がした。壁に埋まった飾りのような気もしたが、ふたつだけ中空に並んだ球体には違和を覚える。するとユイルアルトが、一言。


「……今は目だけ、ですか」


 目? フェヌグリークが疑問に思っていると―――その二つの球体が、忽然と消えた。

 え。短い驚きは声になる事はなく、けれどユイルアルトが口を開く。


「ジャス。ヴァリンさんが帰ってきますよ。すぐそこに居ます」

「え!? ほ、本当!!? じゃあ私部屋に戻るから!!」


 何が起きているのか聞く間もなく、ジャスミンは即座に階段を駆け上がっていく。その後ろ姿を見送るオルキデとユイルアルト。


「全く、食事くらい摂っていけばいいだろうに」

「そうも言ってられないでしょ、ヴァリンさんの事ジャスは本当苦手なんですから」

「部屋で食べられるよう用意だけするから後で持って行ってくれるか、ユイルアルト」

「構いませんよ、そのくらい」


 先程見たのが何なのか、問いかける前にユイルアルトは廊下の奥へと進んでいく。顔を洗いに行くのだろうかと思いながら、フェヌグリークが気を取り直して匙を持ち直した。

 けれど気になって、もう一度あの球体が見えた方へと視線を向ける。……その時だった。酒場の入口の扉が開いたのは。

 扉には来客を告げる鐘が付いている。しかし、それは音をさせることも無く外からの侵入者を迎え入れた。


「やれやれ、国家の狗共はこの時間でも起きてるのか」


 聞き覚えのある声だ。長ったらしい濃紺の前髪は昨日と同じに、その瞳を疎らに隠している。着ている服は外套こそ同じだが中が違う。生成り色の開襟シャツと、血を思わせる深紅のズボンだ。

 僅かに開いた扉の向こうに見えた空は夜明けの色。赤紫を伴った深い青が、扉によって隠される。

 外から来たのは、ユイルアルトが予言したようにヴァリンだった。彼の来訪をどうやって知ることが出来たんだろう、とフェヌグリークが匙を握って考える。


「ん、流石シスターは朝が早いな。それとも、ただ寝付けなかっただけかな?」


 フェヌグリークの姿を認めたヴァリンが、早速そんな軽口を叩き始める。不快に思っても口答えをすると機嫌を損ねると判断して口を噤む。ヴァリンの興味は既に他に向いていて、僅かにしか聞こえない足音をさせながらマスター・ディルの側へと進んだ。


「ディル。これ、例の奴か? 持ってって構わないのか」

「……既に報酬は渡している。持って行け」

「はは、流石だなユイルアルト。ジャスミンにも伝えておいてくれ、『その気になったら遊んでやるよ』とな」

「伝えませんしもう忘れました。私達は忙しいので遊ぶなら例の色街の方々だけにしておいてくださいね」

「手厳しい。ジャスミンは遊び慣れてない女だからいいんじゃないか」


 あまりに軽薄すぎるその物言いに、根っからのシスターであるフェヌグリークが嫌な顔を浮かべる。ヴァリンに対する嫌悪感と遊び慣れた男の軽口に、自然眉間が寄る。


「まぁいいさ、それはそれとして。ディル、許可が下りた。俺が報告したその時点を以て、例の『廓』は好きに『さばけ』、だとさ」

「―――ふん。汝も行け」

「お前にさばけって言うあいつらも何考えてんだか……って、何だって? 俺が?」

「ミョゾティスとやらには、今日の夜出るように言ってある。あれのギルド員加入の審査として、アルカネットと汝が見届けよ」

「ああ? 俺があの女の見届け人になれと? あんな素性の知れんシスターのお守りをする為に俺はこのギルドの副マスターしてる訳じゃないんだが」

「副長としての自覚は有るのだな。長と副長の命令は何方が優先されるか、汝なら身に染みて分かっているであろ」


 眉間に皺を寄せるのは、今度はヴァリンの番だった。


「……本当、言葉も何もかもが足りん奴だなお前は。分かった、が。代わりに何か埋め合わせしろよ」

「考えておこう」


 ヴァリンの言葉を受け流すように、素っ気なく言うマスター・ディル。

 二人が睨み合うでもなく、けれど何か言いたい事を言えなさそうに視線を互いに向け続ける。

 そんな時だった。

 二階から、ミュゼが起きてきたのは。


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