13
「っげぇ」
酷い挨拶だ。階段を下りたミュゼは、まだ話の最中であった二人の姿を見て蛙が潰れたような声を出した。白銀の髪の持ち主は視線を向けるだけだが、青紫色の髪の男は眉間に皺を寄せて唇を曲げる。
「『げぇ』、とはなんですか……えーと」
「………名前くらい覚えてくれ、ミュゼだよ。あーもー最悪、風呂入ろうって思ったのに何でこんな」
「風呂? 今入ってる人がいますよ、どちらにしろ待つことになります」
「はぁあ? あーもうこういう順番制って面倒だな。それでなくともシャワーは無いみたいだし」
「しゃわー?」
アクエリアが聞き慣れない単語を復唱する。途端、ミュゼが「やべ」と言葉を漏らすが、その言葉さえ彼の地獄耳には届いている。しかし、何やら訳ありのミュゼには首を突っ込まない方が得策だと考えたアクエリアは追及しない。
フェヌグリークと違って不遜に振舞っているミュゼには疲労の色が見えた。だから、アクエリアが起こした行動はその疲れを労う為のものなのだけれど。
「水でも飲みますか、ミュゼさん」
「……水より、折角なら酒がいいな。ここは酒場だろ、果実酒がいいなぁ」
「これから風呂ってのに、飲んで入ると悪酔いしますよ」
「私が簡単に潰れる訳ないじゃん。軽いやつなら平気だよ、何か持ってきて」
ミュゼは言ってる間にも、少し離れた席に陣取った。着替えが入っているらしい小さな手提げは、店員姉妹のどちらかの私物ではなかったか。
アクエリアは溜息を吐きながらカウンターに入り、マスター・ディルはその間もミュゼへ視線を送っている。その視線に気付いているから、ミュゼはマスターを見ない。
「苺の酒は飲めますか」
「苺ぉ? 飲んだことないけど多分飲める」
アクエリアにさえ視線を寄越さず、酒の到着を待つミュゼ。
待つだけのミュゼの前にアクエリアが酒瓶とカップを置いた時、礼を言うミュゼよりも先に口を開いたのはマスターだった。
「……ミョゾティス」
瓶の
「……なんですか」
取り繕ったような返事はミュゼの口を突いて出た。
「此のギルドに身を置くにあたり、簡単な審査を行う」
「審査?」
その単語を反芻するように声を出したのはアクエリアだった。
ミュゼは黙ったまま、その言葉を聞きながら酒の蓋を開ける。濃い赤色をした果実の香りのそれをカップに音を立てて流し入れてから、手には持つがそれを口に運ぶことはしない。
「二番街に、『廓』と呼ばれる子供達が相手をする売春館が存在する。明日、アルカネットと……もう一人を連れて潰しに向かえ」
「……ひとつ、お伺いしても宜しいでしょうか」
ミュゼは平静を装いながら、カップを口許で傾けた。何でもいいから何かを口に流さないと、喉まで張り付いてしまいそうだったから。
甘酸っぱい味と香りは確かに苺のそれのようだ。しかし、喉元を滑り降りる液体の感覚は軽く喉を灼くような熱さを感じる。軽くなんて無い飲み心地にミュゼが眉を顰めた。
口内を湿らせてから、再び口を開く。
「『潰す』とは何とも物騒な指示ではありますが、具体的にはどのように行えば合格となるのでしょうか?」
予想していた事だが、マスター・ディルは答えない。
そしてアクエリアも、無表情に近いながら瞼を伏せている。問われても返答しない顔だった。
カップの中の液体を一気に喉奥に流し込んで、ミュゼが乱雑にカップをテーブルに置いた。
「承知致しました、……とはあまり言いたくありませんが。審査だと言いつつも殆ど何にも伝達しない貴方様の意図を汲みつつ、かつお気に召すような形に仕上げればいいのですね? 審査だとかいう体の良い形で無給で使われるのでしょうかぁ?」
「幾ばくかの金額は渡せる。用途に制限はしない」
「ああギルドマスターのなんと慈悲深い事。気が向いたら感謝いたします」
ミュゼの言葉を承知と受け取ったマスターが、その言葉を最後に席を立つ。向かう先は自室だろう、酒場の奥へ続く廊下の向こうに姿を消した。
二人のやり取りに棘めいたものを感じながらも、なんとか『仕事の受諾』が成された事にアクエリアが安堵の溜息を吐く。ミュゼが酒の二杯目を手酌しようとしているのを、横から瓶を掻っ攫ってカップに注いでやった。
「……うわぁ、まさか注いでまで貰えるなんて思わなかった」
アクエリアとしては普段の酒場仕事でもよくやっている事なので別にいつもと変わらない行為だが、ミュゼにとってはそれが何かしら異質なものに見えたらしい。アクエリアが再び感じた違和感に、今度こそミュゼの瞳を見た。
ミュゼの表情は複雑そうだ。マスターにブチ切れていた時のような勝気な瞳でなし、かといってしおらしいシスターを装った顔でなし。無言のままのアクエリアの視線を受けて気まずそうに視線を逸らされて、自らの不躾に気付いた。
空気を変えるために質問を投げる。
「……彼に何か話を持ち掛けたんですよね。何なんです、話って」
「それ、上の姉妹にも聞かれたよ」
「答えたんですか?」
「……皆、何が楽しくて詮索するんだ。やられて嫌な事は人にするなって教わらなかった?」
言ったミュゼは視線を僅かにアクエリアに向けた。言葉の反応を窺っているようだ。
まるで、どの程度までの失礼な発言なら許されるか、線引きを確認するかのように。
アクエリアが僅かに違和感を覚えた。ミュゼの口調は、マスター・ディルには慇懃めいた敬語だった筈だ。それなのに、アクエリアに対してはまるで昔馴染みにでも言うかのように砕けている。その口調がまた、さして古くない記憶の中のひとりの女性のそれと重なって聞こえた。
誰も彼も、『彼女』に縛られ続けている。アクエリアにとってのそれは恋愛感情ではなかったけれど、喪って痛いと思う心が確かにあった。
「そちらこそ、質問には素直に答えるように親御さんから教わりませんでしたか」
ミュゼは、『彼女』ではない。
だから、彼女にしてやったように笑ってはぐらかされて終わりにはしない。
「血の繋がった親なら、私の小さい頃に死んだからな。私を育ててくれた奴ならそんな事言ってた気もするが……え、あれ、じゃあ私どうすりゃいいんだ。うわぁ、こんな状態になってから矛盾に気付いたぞ」
「……?」
目に見えて、ミュゼが狼狽え始めた。その姿に思い当たる節が無いアクエリアはその動揺を不思議なものを見る目で見ているだけ。
暫くその場でのたうち回っていたミュゼだが、観念したように口を開く。
「……人を、探してる」
「人?」
「絶対に、他に言わないでくれ。聞かれたくないし、マスター以外には言いたくない。言ったらお前の性癖とか秘密とか全部この城下にぶちまけるからな」
「………そんな大層な話だったんですか? ってか性癖ってなんです、俺はそんな貴女に知れるような性癖なんて」
「胸より尻派、一番好きな部位は首元、折れそうな程細かったら更に良い。昔の恋人は求婚したのに逃げられた」
「―――」
「世界で一番嫌いな職業は『結婚詐欺師』」
「……何故、知って」
性癖自体は有り触れたものだと主張すればどうにかなるかも知れない。そこまでは良かった。
何故、アクエリアが存在を認識して数時間しか経っていない混ざりのエルフが、アクエリアの個人情報を知っているのか。
アクエリアは恋人に逃げられている。それも、求婚の指輪を渡してから時間が経たないうちにだ。その彼女は、彼女が持つ全財産を置いて住んでいた街から消えた。それを聞いた心無い者から、アクエリアは結婚詐欺師の汚名を着せられる。
『彼女の財産を全て奪って追い出した詐欺師』
『心が無い黒エルフ』
アクエリアはその汚名を晴らすためにも、そして最愛の人を追いかける為にも、自分も旅に出た。
彼女を追って二十年ほどが経過した。けれどここ五年ほどは、アクエリアはこのアルセン城下にある酒場に居着いてしまった。
「理由は言わない。でも、お前の過去を色々知ってる。なぁ、ダークエルフのアクエリア・エステル」
「……!!?」
そして、今まで一番隠していた自らの種族を言い当てられて、アクエリアが瞠目した。
「ダークエルフであるお前のお兄さんが育てた孤児と、それと知らず意気投合してしまって彼女の経営してた酒場に居着いた。……ねぇ、なんであの婆さん居ないの。なんで戦争で死んだって事になってるの。なんで爺さんの方が生きてるの? 私、そんなの知らないよ。だって私が聞かされたのは、爺さんが死んだって話だったのに」
「……ミュゼ、さん。貴女は、何を」
「このままだったら私消えちゃう。私が消えた世界で……ううん、婆さんの子供達がいない世界で、エクリィは何して生きていくんだろうね?」
言いながらミュゼは自分の掌を見た。酒で僅かに色付いた肌はほんのり朱に染まっている。ミュゼの口走るそれに、アクエリアは思い至る節がない。けれど、その緊急性はなんとなく伝わってきた。
アクエリアの過去を、これまで人に漏らした事は殆ど無い。漏らした数度だけは口を割らないと信頼できるものと、今は既に『亡い』者のみ。
「ミュゼさん、貴女は何者なんですか」
二杯目の酒を呷ったミュゼは、急に真剣な顔で問いかけてくるその顔に噴き出した。
「聞きたい? 一緒に地獄を背負ってくれる?」
ミュゼの記憶の中で、アクエリアが今しているような表情は見た事が無くて。
「………遠い未来の先まで、私を愛してくれるってんなら言っても良いよ」
そんなはぐらかし方で、ミュゼは手酌で三杯目を注いだ。
はぐらかされた側のアクエリアは、突然の言葉が冗談にしか聞こえなくて目を丸くしている。しかし、そんな悪質な冗談を言われることに憤慨して瓶を持ったままのミュゼの手を掴んで引いた。
勢いで瓶の口から雫が跳ねる。アクエリアの服とミュゼの手に薄赤の水粒が散った。
「趣味の悪い人ですね、そんな冗談で俺の何が欲しいんですか。持ってる情報ですか?」
「あははっ。過去に縛られてる男の情報程度が、私にとって価値があるって思ってる? ……私にとって一番価値があるものなんてずっと前から決まってて、いつまでもその地位退いてくれないんだよ」
アクエリアは、そこでミュゼの頬が赤いのに気付いた。
これは酒のせいかも知れない。けれど、笑みを作ろうとして歪んだ唇は、きっと酔いのせいだけではない。
そっと掴んだ腕を離した。ミュゼは何事もなかったかのように、持っていた酒瓶をテーブルに置く。
「今のお前に私が話すことなんてない。八十年後に出直してこい」
「……随分強気ですね。八十年後の貴女になんて興味ないですよ」
「はははは、お前言ったな? その言葉忘れんなよ」
半笑いのミュゼが、注いだばかりのカップをアクエリアへと突き出した。戸惑いながらも、アクエリアがそれを手にする。
「飲め、んで誓え。私がもしこの酒場に不都合な存在になって殺されるとしても、その時はお前の手じゃないと嫌だ。私はここを裏切るつもりはないけれど、お前だけは私を裏切るな。私が殺されるって時も私の側に居ろ」
「……誓って、俺に得があるんですか?」
「あるかもよ。……気まぐれに、私の身の上話聞かせてあげたりとかさぁ?」
出逢ってまだ数時間。
それなのに、ミュゼはアクエリアの何もかもを見透かすような事ばかり言う。
これまで見透かす側だったのはアクエリアだ。この裏ギルドの交渉役として、様々な依頼をこなしてきた。百年を生きたアクエリアには、年若いヒューマンの精神状態なんて手に取るように分かるからだ。
けれどミュゼは、まるでそんな自分を『最初から知っている』かのように振舞っている。
駄目だ、と思った。精神的優位に立たれれば、交渉は不利になる。ミュゼのその振る舞いの理由を、何としても知らなければならない。
「分かりました、頂戴します」
条件を付けて、飲み干すことを決めた。
差し出されたカップを手にして、軽く掲げるように目線まで持ち上げる。
「貴女がこの酒場と、俺自身に不都合になった時。その体を鴉の餌としましょう」
「―――……は、ははっ。鳥葬と来たか。相変わらずえげつない事ばっか言うのな」
一気に呷る酒を飲み下す瞬間、ミュゼの口から、まるで長い間知己だったかのような言葉が聞こえた。
アクエリアがそれを問い質す前に、ミュゼは「風呂は明日にする。おやすみ」と言ってその場から立ち去ってしまった。引き留めようとした手が、ミュゼの肌の上だけ滑って擦り抜ける。
「ミュゼさん」
階段を上がっていく軋む音と共に、声が届く。
「ミュゼ、でいい。お前にさん付けされると頭が痛くなってくる」
何処までも一方的なミュゼはそれだけ言い残して、部屋に戻っていった。
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