12
フェヌグリークとミュゼが通された部屋は、姉妹二人が過ごしている私室だった。
通されて最初に驚いたのは、一階が薄汚れた酒場だというのにここは小綺麗にされた『乙女の部屋』だということ。綺麗に整頓された広い室内には数々の植物用の棚が用意されていて、カーテンも薄紫色。壁は塗料を塗っているのか淡い黄色だ。壁掛けの蝋燭に火を点けていったオルキデが、灯りを充分に点した室内で二人に振り返る。
「改めて、ようこそ。私達の部屋に」
そうして移動用にしていた手持ち蝋燭の火を吹き消す。戸惑うフェヌグリークの肩に手を掛けたのはマゼンタだった。
「そう怯えないでください。私達、同族には優しいんですよ」
「……同族、って……」
「私達もプロフェス・ヒュムネなんです。フェヌグリークさんは私達の親戚かも知れませんからね、少なくとも痛い事をするつもりはありませんよ」
二人は室内にふたつある一人掛けのソファに案内された。オルキデとマゼンタはそれぞれ自分のベッドに腰掛ける。
フェヌグリークは不安そうな表情を浮かべたままだし、ミュゼは警戒する鋭い視線を解除しない。顔が強張っている二人に、姉妹は互いに顔を見合わせ笑っている。
「少し、色々と考えていただくこともあるでしょう。この酒場に関わってしまったことが運の尽きですね」
「マスターも、今日は少し疲れてるんだ。何かされそうになったら、私達にすぐに言ってくれ。間に合うなら助ける」
「……あの」
フェヌグリークは、二人を慮るような発言をする姉妹に声を掛けた。少なくとも、姉妹はフェヌグリークの味方ではあるらしい。
「この酒場って、なんなんですか」
状況整理の為にも、今はそれを聞いておきたかった。
質問と同時にオルキデが目を伏せがちにして、簡単に答える。
「名前は『J'A DORE』。今のマスターで三代目になる。基本的に客は少ないな、でも乱闘や面倒事は滅多に起きないぞ。静かに飲めるって評判はあるし、自己評価だが酒も料理も味は悪くないと思う」
「………じゃあ、酒場じゃないほうって、なんなんですか」
そちら側の話は聞かれたくないものだったのだろう。けれど答えるつもりはあるようで、オルキデの唇が暫くの沈黙の後に開かれた。
「……国家直轄の……面倒事請負屋。またの名を裏ギルド『j'a dore』。酒場もギルドもマスターはどっちも同じだが、こっちは今のマスターで二代目だな。先代の酒場マスターはギルドを引き継ぐ前に鬼籍に入ってしまったから。標的殺害、要人警護、命令されれば遠征も子守も薬の調合もするぞ」
「どうして、そんな事を?」
「さて。この裏ギルドの成り立ちを聞いたような気もするが、それを詳しく話せる初代マスターも既に鬼籍に入っている。けれどこの酒場の裏の顔は確実に国家秘匿事項だし、これを何処かに伝えようとすると……どうなるかは」
「分かっています! 言いません!! 言いませんから!!」
オルキデが遠回しに口にした言葉さえ遮って、フェヌグリークが首を振って叫んだ。
「……言わないから……お願い、後の二人は……」
「フェヌグリーク」
震える肩に声を掛けたのはミュゼだ。
ミュゼも沈痛な面持ちで、フェヌグリークの恐怖を受け止めようとしている。もともと、アルカネットを尾行しようとしたのはフェヌグリークだった。それを引き留めもせず、自分も付いて行くと言ったのはミュゼ。
今更後悔しても遅い。最早元の生活には戻れない。
「……私も質問が幾つかあるんだが、いいかい」
「勿論だ、貴女はこれからこの酒場の仲間になるんだから。……私達からも聞きたい事があるしな」
「じゃあ、そっちの質問から聞こうか。聞きたい事って何だ」
「あのマスター・ディルに、何を吹き込んだ?」
吹き込んだ、なんて言われれば流石のミュゼでも笑わずにいられなかった。耐えきれず噴き出して肩を揺らす。
問われたのは、彼を知っている者なら当然のように浮かぶ疑問。
独善的で、人に向ける思いやりや優しさを何処かへ置いてきてしまった男。
ミュゼだって、あの孤児院に流れ着いてからそう聞いた。あの酒場のマスターは、人の心を持たないのだと。
その時点で、既にミュゼの知っている世界とは大きくかけ離れていた。
「吹き込んだなんて心外な言い方だね。あの男は目付け役がいないと交渉も出来ない訳じゃないだろ」
「それにしたって彼の反応は異常だ。あんな怒鳴り声を挙げる所なんて、滅多に見ない」
「聞きたければ本人に聞くといい。これ以上話すとディル様の怒りをまた買いかねないからな」
「はぐらかされちゃったね、姉様。……でも、あんな声聞いたの私初めてかも。もともと冷たい人だったけど、先代が居なくなってからそれが酷く―――っと」
マゼンタがまるで失言した、とでも言いたそうに自分の口を抑えた。それに気づかないミュゼでもなかったが、そこは敢えて追求しない。
先代、との言葉にフェヌグリークが興味を示した。これまでの会話の中で、何かしら意味を持っていそうなその単語に、瞳が失意の色を振り払ってマゼンタへと視線を向けた。
「……先代、って……?」
その質問に反応したのは、マゼンタではない。
「すみません、シスター・フェヌグリーク。今度は、私が彼女たちに聞く番ですから」
やんわりと、しかしはっきりした拒絶の色を見せながら、フェヌグリークに声を掛けるミュゼはシスターとしての姿を取り繕っている。本性を今でも隠したがっている同僚の女に、少なからず心を傷付けながらもその場は引いた。
ミュゼも、本当の姿をフェヌグリークに見せない。まるで、兄と慕った男のように。
瞳が再び失意を宿す。こんな状態になっても、フェヌグリークは蚊帳の外なのだから。
「………そんじゃあ、何から聞けばいいかね……。……一先ず」
世界に取り残されたように感じたフェヌグリークは、その場で唇を噛むしか出来なくなっていた。
「………ちょっと前にあったっていう、戦争の話から聞かせて貰いたい」
「本当の本当に追い出しますからね。金輪際この酒場で物騒な事言わないでくださいよ」
一階で、未だに怒っているのはアクエリアだった。腕を組んで、その場に残っている面々に口煩く忠告を繰り返している。
残っている者とは言っても、その場にまだ居るのは当のアクエリアとマスター・ディル、それからヴァリンだけだった。怒られている二人は椅子に座って、アクエリアの怒りの嵐が過ぎ去るのを待っている。ヴァリンに至っては面倒臭そうな表情を隠そうともしない。
アルカネットは先に部屋に帰ってしまった。しかし誰も引き留めも、声を掛ける事もしなかった。今日自らが犯した判断の甘さを、彼は一人きりの部屋で呪う事になるだろう。
「聞いてるんですか二人とも!!」
「聞いてる聞いてる」
ついにアクエリアが、聞いているのかいないのか分からない二人にキレた。
しかしそんなアクエリアの怒りに、油を注ぐヴァリン。
「って言ってもな、俺は帰る場所もあるし追い出された所で痛くも痒くも無い。それにディル追い出したら困るのそっちじゃないのか。ギルドの仕事はお前にだって生命線だろ」
「困りませんね!!! 元々この酒場は俺の兄のものです。ギルドの拠点など他に何処にでも構えたら宜しい。ここを血濡れにされるよりよっぽどマシです」
「……此の酒場の名義は、今は我であるが」
「その元々の持ち主は俺の兄なんですけどね!! それをあの子から譲り受けただけの貴方の手に渡るなんて、こっちは心外なんですよ。更にこの場所を血で汚すって言うのなら、俺だって黙っていられません」
アクエリアがここまで怒りを露わにするのは珍しい事だった。しかし、無い事ではない。酒場そのものの事と、先代と先々代のマスターの話になると彼の怒りは容易く沸点に達する。普段通りの敬語が剥がれる事は無いが、どちらかと言えば冷静な彼が怒り出すと面倒な事になるのは皆が知っている。
苛々した表情を崩さないアクエリアに、盛大に溜息を吐いたヴァリン。鬱陶しそうに前髪を弄っているが、話の内容自体に飽きが来ている顔だ。
「お前、あいつの事今でも『あの子』って言うが、こいつより年上だったんだぞ。こいつみたいな唐変木に惚れて結婚した三十路女に使う呼び方でもないと思うんだがな」
「黙れ出て行け」
「ああ怖い。なんでどいつもこいつもあんな女を今でも贔屓するんだ。……ソルの方が、よっぽど綺麗で聡明で、とびきり良い女だった」
言いながら立ち上がるヴァリン。長い前髪がその表情を隠すが、髪の向こうから覗く悲哀にはマスターもアクエリアも気付いている。
「それじゃあな、また明日」
一度だけひらりと手を振って、顔を向けないままヴァリンが酒場の扉を開けて出て行く。閉めていた閂を外して出て行かれたので、アクエリアが溜息を吐きながらそれを掛け直した。
「……ソルビットさんも綺麗でしたけれど。俺には身内の欲目ってのがありますから」
「……………ソルビット、か」
「引きずっているのは彼だって一緒でしょうにね。彼女が生きてさえいたら、彼もああまで……」
二人が同じ名前を口にする。それは一人の女の名前だった。二人とも、昔に関わった事のある人物だった。
栗のような茶色を宿し癖の強い髪をした、美しく整った顔と男を誘う豊満な肢体、それから磨き抜かれた才能を持つ『宝石』と呼ばれた女。
そしてその女の隣には、いつだって鈍い銀色の髪を持つ女がいた。
二人がその女性二人の事に思いを馳せていると、階段を下りる誰かの足音が耳に届く。
軋む耳障りな音に、マスター・ディルとアクエリアが同時に視線を向けた。
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