10

「……はっ!?」


 一番最初に驚愕の声を上げたのはアルカネットだった。

 その驚愕を見越してか、マスター・ディルが気怠げに応える。


「無論、ミョゾティスとやらには監視代わりに此方で生活をして貰う。今の職も離れさせねばならぬだろうな」

「……そ、んな事勝手にっ……!!」

「では」


 拒否の色を見せたミュゼに、ディルが緩やかに、伸ばしきっていない手でヴァリンを指差す。指差された方も一瞬面喰らった顔をするが、その意図に気付き憮然として鼻を鳴らす。


「其の命、其処な男に譲り渡して構わぬと?」

「……っ!!」

「此の場に汝の味方は居らぬ。居たとしても、我が今から汝に行うのと同じ様に斬り伏せよう。選ぶと良い、其の命を繋ぎ止めて、我に持ち掛けた提案を叶えるか。……其れとも、愚かだった我が妻が如く、命を花と散らせるか」


 マスターの言葉を飲み込め切れてないのは、その場にいたミュゼ以外の全員だ。

 ミュゼは、事もあろうにマスター・ディルに何かしらの提案を持ち掛けた。そして彼は、これまでの彼ではほぼ有り得ない『提案を受け入れようとしている』状態。理解しきれず、オルキデが頬に手を当てて自らの発熱を疑っている。

 彼が言った通り、彼を弄することが出来るのは『たったひとり』だ。二人目になろうとしているミュゼは、その『たったひとり』とよく似た顔をしている。

 ミュゼは悩んでいた。孤児院には戻れないという、そのマスターの条件を呑んでいいのか。確かにミュゼがした提案は、自らの命と同じくらいには重い意味を持つものだ。しかし孤児院という施設に関わる事は、彼女に『ディルを信じる』以外の選択肢を潰すものでもある。

 この冷徹で冷酷なギルドマスターに全幅の信頼を置けるほど、ミュゼは世界を知らない訳ではない。

 返答に迷っていた。何とかして第三の選択肢を引き出すことは出来ないか。ミュゼの逡巡は。


「姉様!!」


 客席から繋がる奥へ続く廊下、その向こうから聞こえた声に掻き消された。


「来てください! 急いで!!」


 それはマゼンタの声だったように思う。先程フェヌグリークと共に風呂へ向かった筈だった。

 声が醸し出す、只ならぬ空気にミュゼとアルカネットが同時に反応した。しかし。


「動くな」


 ミュゼにはマスター・ディルの剣が。


「お前もだよ」


 アルカネットには、仲間であるはずのヴァリンの短剣が。

 ほぼ同時に首元へと向けられた刃は、二人の動きを奪った。

 動けなくなった二人は、遠くから聞こえる声で様子を窺うしかない。ただ、その声の中にフェヌグリークのものと思われる声が聞こえて安堵した。少なくとも、まだ生きている。その身を害された訳ではなさそうな声に、大人しくしている事が最善だと気付いた。

 やがて奥から三人の姿が現れる。身を清めたマゼンタとフェヌグリーク。二人はそれまで着ていた服とは違う、同じ濃い紫色の寝間着を纏っている。フェヌグリークが来ているものは、マゼンタの予備なのだろう。オルキデが静々とマスターの傍まで近寄る。


「マスター、お耳に入れたい事が」


 フェヌグリークの無事な姿を見れば、二人から安堵の溜息が漏れる。それを聞いて、マスターとヴァリンの二人が刃を下げた。


「此処で構わぬ、話せ」


 オルキデは、この場所から離れた場所で話したかったのかも知れない。マスターが不愛想な口調で告げると、オルキデは暫く戸惑った後に重い口を開く。


「………フェヌグリークは、プロフェス・ヒュムネです。背中に葉緑体を確認しました、極僅かですので……もしかすれば、王族に連なる血の持ち主かと」


 ―――静まり返る室内。

 何事か分かっていないのは当のフェヌグリークだけ。

 その声が耳に届いた筈のディルとヴァリンは、表情を強張らせていた。


「なあ、ディル」


 ヴァリンの声が、嫌に響く。


「もういいだろ、そっちの女も即答出来ないのならそれまでの話だ。今の内その二人殺しておかないか」


 ヴァリンは笑うでもなく、怒るでもなく、ただ淡々とした口調でそう提案した。

 ディルはその声に応えない。けれど、下げた筈の剣先を再び上げる。


「………此れ迄、汝とは短くない時を否応無しに過ごして来たと思っていたが」


 彼が返す声は無機質で、冷たくて、それで。


「汝の提案、一も二も無く承諾しそうになったのは初めてだ」


 明確な殺意は、声よりも態度で表されていた。

 瞳が、剣先が、躊躇いも無くミュゼに向いた。ヴァリンの瞳はフェヌグリークに向いている。

 ひ、と息を飲む声がした。怯えるフェヌグリークを、背に庇ったのは兄と呼んだ人物ではない。

 オルキデとマゼンタがいち早く、フェヌグリークを背に庇って動かない。


「プロフェス・ヒュムネは血の濃度に関わらず、王家から保護が言い渡されています。それを貴方達が破るのですか?」

「これ以上私達の仲間を減らされたら困ります。少しは冷静になってください」


 フェヌグリークを庇う二人は微笑んでいた。けれど、どこか威圧感さえ感じさせる口調で、殺意を向ける二人を諫めるように語りかけている。

 フェヌグリークには今の状態が分からない。ただ、追い立てられるようにして風呂に入っただけだ。一緒に入るとの名目で見張られながら、落ち着かない入浴を強制させられただけなのに。


「我は、此の世界でプロフェス・ヒュムネにのみ無条件での殺意を抱いている。―――今なら未だ王の感知する所では無い、葬るなら今しかないのだ」

「俺も、いっそ絶滅してしまえとさえ思っている。俺の世界をこんな下らないものに変えた種族なんて、いなくなっても構わない」

「それは面白い冗談をお言いになるのですね? 私達がヒューマン如きより先に滅びると?」

「っはは、有り得ない夢の話ですね。それともマスターもヴァリン様ももうおやすみになっているとか? 面白くない寝言も大概にして頂きたいんですけれど」


 四者四様の、しかし殺意を以て、同量の威圧と害意を抽出した言葉が零れ出す。

 途端に仲間割れのような状況になって、困惑しているのはミュゼとフェヌグリークだ。アルカネットは、その状態になっても動けずにいる。自ら突き放した妹の傍にすら行けない。

 震えるフェヌグリークの唇は、自身の話をしながらも置いてけぼりにされた心中を語りだす。


「……プロフェス・ヒュムネ、って………なん、ですか………?」


 その問いは、全員の動きを止めるに相応しい言葉だった。


「………は、……ははっ」


 最初に口を開いたのは、ヴァリン。乾いた笑い声が部屋に響いた。


 ―――プロフェス・ヒュムネ。

 二十年ほど前に、他国の侵略を受けて滅亡した国『ファルビィティス』に住まう種族。

 俗称として『グラスヒュム』、東方では『草民』と呼ばれ、蔑称として奴隷市場では階級である『エスプラス』と呼ばれる。王族には無いが他種族の血が混じると体の何処かに葉緑体と言われる緑色をした痣のような模様が浮かび上がる。総じて美しい黒髪を持ち、種族に伝わる特殊な種を使い、その種には出来ないことは瞬間移動と死せるものの復活だけだと言われている。滅亡したのも、騙し討ちに因るものだとも。

 この場に居る者は、全員がその事を知っている。アルカネットだって、話には聞いた事がある。そのプロフェス・ヒュムネがこの国に齎した地獄を、直に知っている者もこの場に居るのだから。


「流石は孤児院出身の奴は教育が行き届いていないなぁ? まだ六年にもなってない……まだ六年も経ってないあの話を、この国で知らない奴がいるなんて思わなかったぞ……?」


 ヴァリンの瞳は笑っていない。怯えるように胸の前で手を重ねたフェヌグリークの側に寄って、静止を掛ける姉妹に阻まれながら、ヴァリンが吼えた。


「俺が直々に教えてやろうか、そしてその空の頭に詰め込んで二度と忘れるな!! 貴様らプロフェス・ヒュムネは生きてるだけで害悪なんだよ!!」

「ヴァリン様!」


 オルキデが喚くヴァリンを押し戻そうとする。しかし、ヴァリンは引き下がらなかった。


「滅亡から二十年経っているんだ、今更俺の前に現れるな!! 大人しく国と共に滅んでおけば良かったんだ、貴様らなんて!!」


 心当たりさえなく、今生きている事さえ頭ごなしに否定されたフェヌグリークがその場に座り込んだ。ヴァリンの怒声は、フェヌグリークの瞳に涙を浮かべさせるには充分で。

 悪い夢だ。酷い夢だ。そう思ってフェヌグリークが唇を強く噛んでも、痛みがそれを現実だと教えてくる。

 もう嫌だ。帰りたい。幾ら願っても、この場に居る全員はフェヌグリークを帰してはくれない。


 このまま殺されるのか。


 そう頭に掠めた頃、カウンターの方から弾けるような破壊音が聞こえた。厚い硝子が割れる音がして、全員が瞬時にそちらに視線を向ける。

 割れていたのはカウンター奥の棚に並べられていた酒瓶だ。茶色のそれが、下半分だけを残して粉々になっている。零れた酒の香りに、フェヌグリークが少しだけ正気を取り戻す。慣れない臭気は、鼻を突いて不快感を与えてきた。何故瓶が割れたのか、まだ理解が出来ない。


「煩いですよ」


 この場にいる面々とは違う新しい声が、酒場の二階へと繋がる階段の方から聞こえてきた。

 声は若く、低すぎる訳でも特段高い訳でもない。ただ、どこか精神の落ち着きを感じさせる声。


「……今、何時だと思ってるんです。近所にも迷惑になるので声を荒げないでくださいよ、ヴァリンさん」


 フェヌグリークにとっては聞き覚えの無い、知らない男の声。

 しかしミュゼだけはフェヌグリークの視界の外で、この声の持ち主の登場に対して呼吸を忘れるほどの衝撃を受けていた。

 声と、足音に覚えがある。その性格をよく知っている。どんな事に悦を見出し、何をしてきた男か―――『何を成す男』か、ミュゼだけは、『ミョゾティス』というその存在自体に刻まれている。


 しかしその見た目は、ミュゼの中の記憶と相違がある姿をしていた。


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