9

 客が一人も居なくなった、閂の掛けられた店内にまで大声が届いた。

 その場にいた誰もが目を見開く。


「………おいおい、嘘だろ」


 その言葉はヴァリンの口から出てきた半笑いの言葉だ。緩められた唇は笑みを繕っているが、前髪に隠れた眉は下がっている。

 聞こえた声の主が、マスター・ディルだと知っているからだ。それなりの付き合いがあったヴァリンすら今まで一度しか聞いた事の無い、ヴァリン以外に至っては初めて聞く大きな怒声に全員が戦慄している。

 同時に全員が同じことを思う。『あの男はこれまで、怒声を張り上げるくらいならその相手を斬り捨てていた』。それをしていないとなれば、シスター・ミュゼの話している内容が彼の心の柔らかい部分に触れるものだという事だ。


「じゃあ良いよ! そっちに頼ろうと思った私が間違ってたんだろ、いいから所在だけでも教えろよ!!」


 キッチンの方から、やや捨て鉢になった声が聞こえる。高い声はシスター・ミュゼのものだろう。

 その声を聞きながらも、店員の二人はギルドメンバーに給仕していた。ここは貸し宿も営んでいて、ギルドメンバーは貸し宿の一員だ。ヴァリンとアルカネット、それからフェヌグリークの座っているテーブルに紅茶が置かれる。

 フェヌグリークは目の前の紅茶を見ながら、肩を窄めていた。優雅にカップを傾けるヴァリンが、気を抜くとその首を狙ってきそうな錯覚に襲われている。この場に味方と呼べる者はいなかった。それはアルカネットに対しても同じ。


「毒は入ってない、飲むといい」


 そう優しく言ってくるのもヴァリンだ。その性質が優しくないのはフェヌグリークだってこれまでの仕打ちで知っていたが、その言葉に嘘は感じられなくて手を伸ばしかける。


「毒薬担当はまだ部屋だろうからな」


 その余分な一言で、フェヌグリークの手が引っ込んだ。喉は乾いていたが、自分で遊んでいるヴァリンの姿に恐怖と苛立ちが同量になって胸に押し寄せる。睨みつけるようなフェヌグリークの視線を受けて、ヴァリンが笑いながらカップをソーサーに戻す。


「……大概にしろよ、ヴァリン」


 苛立ちを隠さないアルカネットの声が聞こえた。肩を竦めるのはヴァリンの番だった。


「別に、お前に凄まれたって怖くはない。お前の女だか妹だか知らんが、此処は『そういう場所』だっていい加減理解しろ」

「へぇ、流石『王子様』の言う事は違うな? そんな下品な発言を、コイツに聞かせないで貰いたいものだ。お前の家の品位が知れる」

「ふはっ」


 堪らず噴き出したような、小馬鹿にするヴァリンの笑い声。


「貴族も見捨てたような汚い孤児院出身のお前に、この俺の何が知れるって? アリィちゃん?」

「―――テメェ」


 一触即発なのはこちらも同じだった。二人の様子に更に怯えた様子のフェヌグリークだが、その姿に声を掛けた者がいる。


「フェヌグリークさん」

「え……」


 それは紫色のワンピースを着た店員だった。短くはない髪を後頭部の低い位置で一つに結んだ、年齢はフェヌグリークに程近いであろう少女寄りの女性。

 彼女はエプロンを外し、それをヴァリンに投げつけた。頭から白いエプロンを被る羽目になったヴァリンは喧嘩腰の口調を止めて、不機嫌そうに取り払う。


「訳ありの人ばかりが集まる酒場なので、怖い思いをさせてすみません」

「……いえ」

「時間も時間です、お風呂に入りませんか? ……恐らくこちらで一泊していただく事になるでしょうし、今ならお湯の順番も空いてますから」


 親し気に話しかけるマゼンタは、努めて優しく声を掛けるが。


「……何か変な行動を起こさないよう、私と一緒に入って貰う事になりますけれど」


 その言葉が、既に優しくなんてない。この酒場にいる以上、どんな見た目でも人殺し集団の一員なのだ。

 フェヌグリークは、アルカネットの後を尾行した事を後悔していない。唯一後悔があるとすれば、この兄をこんな場所に居る者たちと同じ道に行かせてしまった事だけだ。

 胸に広がる仄暗い感情に耐えながら、フェヌグリークがマゼンタの誘導で立ち上がる。それと同時だ、キッチンから床を転がるようにしてミュゼが出てきたのは。


「っち、このクソジジイ話に聞いてた通りかよ!」


 口端には血が滲んで、服は数か所裂いたような跡がある。腕は僅かながら切れていて素肌が見え、そこから赤い筋も覗いていた。

 フェヌグリークが顔を青く染める。こんな乱闘騒ぎの受け手側が、自分と仲良くしてもらっている女だという状況があまりに非日常すぎて。けれど、そんな状態をまるで見物でもするかのように紅茶のカップを口に傾けているヴァリンとアルカネットにとっては、それは『日常』だった。

 やめて、と声に出しかけたフェヌグリークの肩を掴む者がいる。マゼンタだ。


「はいはい、後がつかえますからお風呂行きましょうね。あったかいお湯に浸かったら忘れられることもあるかも知れませんよ?」


 マゼンタの力は、小さく細い体の女だというのに強かった。アルカネットにさえされたことの無いような力で、引きずるように風呂場に連れて行かされる。

 二人が風呂場に向かったと同時、キッチンからゆらりと銀色をした姿が現れた。

 その手に握られているものを、その場にいた全員が見ている。


「―――我を弄する事が出来るのは、後にも先にも一人しか居らぬ。そのような甘言で、我に何を望むかと思えば」


 灯りに照らされる、銀色に光るそれは彼の愛用の剣だった。即座にその場にいたミュゼ以外の全員が、危険を察知して部屋の隅に避難した。ミュゼは乱雑に口許の血を拭いながら、白銀の髪を揺らす幽鬼のような彼に吐き捨てる。


「甘言だと? ふざけんな、私は別にそっちに不利益になるような事はなにひとつ持ち掛ける気はない。それとも何か、思い出すのが怖いのか」

「黙れ」

「自分が! 守れなかったからって! 愛した女の事を忘れるくらいお前は弱いのかって聞いてんだよ!!」

「黙れ!!」


 再びの、マスター・ディルの怒声。その声は、今までギルドメンバーであるなら聞いた事のないような悲痛も混ざっていた。

 ヴァリンが部屋の隅で、ミュゼの声に唇を噛みしめた。それには誰も気付かない。


「殺してくれる。その口が無礼を留めておけぬというのなら、あの世で我が妻にでも語り聞かせろ。話し相手が増えるなら、妻の慰みにもなろう」

「……それだったら、お前が直接行ってもう一度ワルツでも踊ってやった方がいいんじゃないのか」


 剣を向けようとしたマスター。しかし、ミュゼの言葉でその動きが止まる。


「お前の好物さえ知らない、不出来な妻だって悲しい顔をした女に、お前は一度だって自分の想いを伝えた事はあるのかよ」

「……黙れ」

「そればっかだな。本当、話に聞いていた通りの『お人形』だ。死ぬ程お前を愛した女に、悪びれる気持ちは少しでもあるのか」


 ミュゼの言葉を聞いていたヴァリンが、耐えきれず噴き出した。肩を揺らし、口に指を当てて笑っている。目の前で繰り広げられている舌戦が余程面白かったらしい。ひとしきり笑い終えるまで、誰も動かなかった。


「ディル、お前あいつに好物のひとつも伝えてなかったのかよ」

「……………煩いぞ」

「言ってやればよかったじゃないか、お前はあいつの料理が待ってるって知ったらそれが何でも執務ほっぽり出して帰りやがって。……というか、ワルツって何だ。気障かお前」


 揶揄する口調に、マスターが目を逸らした。表情は若干不快を物語っているが、ヴァリンに対して剣を向ける事はしない。二人の間で交わされる口調に、どことなく仲が悪くないという事を感じ取ったミュゼ。


「でも、まぁ」


 ヴァリンが口を開く。その表情には笑みしかない。なのに。


「さっきの怒鳴り声の一部は俺の痛い所も突いてきたな、うん。不愉快だからこの女、俺が殺していいか?」


 これまでミュゼに向けなかった怒りを、この場で見せてきた。言葉端から覗く殺意は、ミュゼの瞳を見開かせる。先程の言葉のどれかが、ヴァリンの逆鱗に触れたようだ。

 ただ一人を挑発するだけの言葉だったつもりが、余計な外野まで怒らせてしまった。その事実に舌打ちをするミュゼを見て、マスターが剣を下げた。


「………ヴァリン」

「何だ」

「汝は、ソルビットの事を忘れた事はあるか?」


 その名をマスター・ディルが口にした途端、ヴァリンの表情が強張る。瞳が大きく開かれた後に、その視線は床へと移った。何度も、何度も、軽薄に見えたその男の口が開いては閉じられる。窒息してしまいそうで、空気を求める魚のように。


「……あるって言ったら、そいつ殺していいか。ないって、言ったら、お前ごと殺しても許されるか?」


 そうして絞り出された声は、それまでの軽薄さは微塵も感じられなかった。

 マスター・ディルの口から出てきた名前をいつか聞いた気がして、ミュゼの瞳が細められた。いつ、何処で聞いたのか、今は思い出せない。誰から聞いたかという事自体は思い出せるのに。

 憎々し気にヴァリンの口から出てきた言葉に、マスターが目を細める。


「聞いただけだ。……その方、ミョゾティスと言ったか」

「……ミュゼで構いません。こちらに来てからは、私を本名で呼ぶ奴なんておりませんので」

「ワルツの話、誰から聞いた?」


 その問いにミュゼは、躊躇う事なく答える。


「私の育ての親、エクリィ・カドラー」

「……知らぬ名だ」

「彼は、彼女から散々貴方への惚気話を聞かされたと呻いていました。お聞きになりますか、私も彼経由で延々と聞かされております」

「……………」


 ディルがミュゼのした提案に言葉を失い、それを誤魔化すかのように剣を鞘へと仕舞い込んだ。鞘に隠れない柄の部分には、宝石が幾つか嵌め込まれている。蝋燭の灯を反射するそれらは、飾りではないことをミュゼも知っていた。ディルが戦意を喪失したのを見て、ヴァリンが苦々し気に吐き捨てる。


「……生かしてどうするんだ、ディル。見られたら殺すってのがお前だったろう? それとも、あいつに似た顔のそれを、代用品にでもするつもりか」


 ヴァリンの怒りはまだ収まらないようだ。厄介な奴がいたものだ、とミュゼが内心で思う。けれどそれに対するディルの言葉で、再び眉間に皺を寄せる事になる。


「見られたからと殺してばかりでは、面倒事になりかねぬからな。……そうだな、その命と引き換えに―――我が傘下に入って貰おうか、ミョゾティス」


 断れば死ぬ、という意味を持つその勧誘は、ミュゼの吐息の音を先に殺した。


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