8
ヴァリンと呼ばれた男は軽薄だった。少なくとも、ミュゼとフェヌグリークにはそう見えた。
前髪の間から覗く顔は、比べるのは失礼な話だがアルカネットのものより繊細な顔立ちで、濃紺の瞳を持つ涼し気な目元も、薄い唇も、女慣れしているように聞こえる話術も、その全てが胡散臭くて危険に思える。時折口許を緩めて微笑む表情も、遊びに慣れぬ女が見たら心を奪われてしまうのではないか。
幸いにも、二人ともこの顔立ちにときめく女ではない。もしときめいたら最後、この男に頭から丸呑みにされてしまう。そんな予感が消えなかった。
「へぇ、アルカネットが出た孤児院に居るんだな。しかし……ふふ、アリィな。可愛らしい呼び方をされてるもんだ」
「……昔から、そうだった……ん、です。孤児院に居た時から、兄はずっとそばにいてくれたから」
街を歩く際の世間話に、話題の種にされているアルカネットは不快そうな顔をする。話しながら歩く四人の男女の姿は不自然ではないだろう。二人のシスターが夜に頭巾を被っている姿も、そう有り得ないものではない。
しかしこれからシスターの二人は、殺されに行くのも同然な場所に向かっている。それに関して恐怖を覚えているのはフェヌグリークだけで、ミュゼは両手を胸の前で組んで鼻歌を歌っていた。
「……随分余裕だな、シスター・ミュゼ」
アルカネットがその様子を不思議に思いながら声を掛けると、ミュゼは頭巾を被ったまま視線を投げてくる。
「やっとこさ目的の一つが叶うんだ。このまま何もしないでいると、多分私は消えるからな」
「消える? ……さっきも同じような事言ってたな」
「おうよ消える。多分、跡形もなく」
アルカネットがその言葉を受けて、少しだけ考える。消えるとはどういうことなのだ。死ぬ、という言葉には縁が続いたように思うが、消えるという言葉は思い当たる節がない。
三番街から四番街へ。そのまま通り過ぎ、五番街へ。
大通りを外れて酒場がある道に入った時、フェヌグリークが不安から頭巾を深く被り直した。
四人は酒場まで足を止めない。ヴァリンがフェヌグリークと手を重ねたまま、裏口に向かった。
アルカネットとミュゼは正面から入る。二人とも、その足の進みに躊躇いは無かった。
来客の報を告げるのは、扉についている鐘だった。鉄製のそれは低く乾いた音を奏で、店内に居た者達は二人に視線を投げる。
店内は閑散としている。静かで重苦しい空気が漂うそこには、客として入っている人物の影が少ない。普通の酒場だったら忙しい時間というのに静まり返る店内で、一人の店員が盆を手に隅に立っていた。
「いらっしゃ……あ、お帰りなさい」
客かと思って声を掛けたのは黒髪を持つ若い店員だった。身に着けているのは濃い紫のワンピースと、白いエプロン。
お帰りなさい、の声を聞いて顔を上げた者がいた。カウンターの向こうで、椅子に座って目を閉じていた男だ。アルカネットの姿を見て、重い腰を上げる。
「ディル」
アルカネットは躊躇わず、その男の居る方向へと向かって歩き始める。それに続くミュゼ。
「話がある、裏にいいか」
「……」
ディルと呼ばれたこの酒場のマスターは、アルカネットとミュゼの姿を交互に見て浅い溜息を吐いた。何をするにも面倒がるマスターは、渋々といった体でキッチンのある方向に歩き出す。
「マゼンタ、後を」
「承知しています」
マスター・ディルの言葉にマゼンタが仰々しく頭を下げる。店内の事を任されはしたものの、勤務態度がいつも変わらないマスターの代わりに酒場を切り盛りしているのはこの女だ。
ミュゼは店内に入るのが初めてではない。しかし、この空気に慣れている訳ではなかった。
重苦しいのだ。客も、店主も、空気も、まるで葬式帰りの苦しみと悲しみに包まれているようだった。普通の者なら酒を飲んで気が大きくなったり陽気になったりするのだろうが、ここは異質。誰もがお行儀良く、そして暗い顔で塞ぎ込んでいるような。
「こっちだ、シスター」
アルカネットの誘導に従って、ミュゼが歩を進めた。
蝋燭の灯で不自由なく歩ける程度の灯があるキッチンは裏口と繋がっていて、そこには既にヴァリンとフェヌグリークがいた。そして、長い黒髪の女も。若草を思わせる薄緑のワンピースを纏い、こちらもまたエプロンを付けていることから店員と思われる。
フェヌグリークは木製の椅子に座らされていた。そして、その姿を検分するようにヴァリンと店員が無遠慮に見ている。
「アルカネット、お帰り」
薄緑のワンピースを着た店員が、アルカネットの姿を見て律義に声を掛ける。それに手を挙げて答えただけで、何も言わなかった。
これでこのキッチンに合計六人が集まった。酒場関係者が食事を摂る時専用のテーブルと椅子もあるが、食材や酒の在庫が壁に並んでいるその場所は狭い。フェヌグリーク以外の誰もが立ったまま、アルカネットからの報告を待った。
「……特に、これといったものは見つからなかった。だが言われた奴らは始末してきた」
その報に不快な顔をしたのは、シスターの二人だけ。他の面々は、アルカネットから出てきたその言葉特に何も感じている様子を見せない。
「全ての部屋を確認したのか」
緩慢に唇を開いたのは、腕を組んで退屈そうに壁に凭れているマスター・ディル。
全て、と言われればアルカネットは黙ってしまった。一階は見たが、二階は見ていない。ヴァリンが有無を言わさず火を点けたからだ。
その様子にヴァリンが、まるで恩を着せるかのような言葉づかいで発言する。
「二階は俺が見てきてやった。……何も無かったから心配するな、ディル」
「……そうか」
お前、いつ見たんだ。アルカネットの口からその疑問が出る事は無かった。
『あった』としても、『なかった』としても、きっとヴァリンは同じことを言っただろうと予想できたからだ。この無気力なマスターを謀るつもりか、それとも何か理由があっての事か。
「どうせ、何かしら証拠が見つかったとしても、二番街の店とやらを潰すことは決定しているんだろう?」
ヴァリンの口から出てきたその言葉は、マスターの緩慢な頷きを以て同意とされる。そして顔を上げたマスターは、次にシスターの二人へと視線を向けた。
「……其れで」
二人の肩が、震えた。
マスターの外見は、中性的でありながら背が高く、女なら大多数が見惚れる程の美形。彫刻か人形かと疑うような、緻密に細工がされた人工物のようだった。彼の灰色の瞳が、最初にフェヌグリークを捉えた。
「アルカネット。此の者らの事を問うてもいいかえ」
その喋りには違和感を覚えた。沈んだテノールが選ぶ言葉は、シスターの二人がこれまで生きてきた世界で誰も日常で使わない言葉だった。非現実的な状況が続いたフェヌグリークが、再び頭巾に手を掛ける。
「……こっちは、俺の妹だ。それからこっちは、妹の同僚だ」
「妹? ……ああ」
マスターの瞳が一瞬細められたのを、頭巾を被っているシスター二人以外が見ていた。
「『あの者』から、聞いていたな」
マスターの口から零れ落ちた『あの者』を知っている面々が、何かを思うように瞳を細める。
自分の理解の範疇を超えた世界を眼前に晒され、フェヌグリークが椅子の上で蹲った。ここにある全てを拒否するかのような態度は、マスターの関心を失わせる。
次にマスターが見たのはミュゼ。しかし、ほんの一度視界に捉えただけで視線は逸らされる。
「……で、何故連れて帰った?」
理由を問おうとしたマスターに、ヴァリンの苦笑が投げられる。
「こっちのお嬢さんは、お前に御用事だとさ」
「用事」
復唱するマスター。その表情は何一つ変わらない。
「ほらシスター、頭巾をどうぞ取るといい。その麗しい顔をこの男に晒せば、鉄面皮も剥げ落ちるかも知れんからな」
ヴァリンの大仰な言い方に舌打ちをしたミュゼ。形のいい唇が歪められ、手が頭巾に掛かる。
そうして解いた頭巾。一つ結びにした長い金の髪が揺れた。
ミュゼの顔を見た瞬間、その場にいた酒場関係者の目が見開かれる。それは、これまで無表情を貫いていたマスター・ディルも同じで。
「……オルキデ」
マスターの口から出たのは、黒髪の女店員の名前。呼ばれて体ごとマスターに向いたオルキデが続きを待つ。
「店を、閉めよ」
「承知致しました」
恭しく頭を下げるオルキデはそのままキッチンを後にする。何事か分かっていないのは、この場ではフェヌグリークだけ。
「お初にお目に掛かります、ディル様」
シスター服をつまんで淑女の礼をするミュゼは、それまでの粗暴な面を隠していた。よく通る声は、いつもの『シスター・ミュゼ』だ。
名を呼ばれ、それまでの表情を再び鉄面皮に戻したマスターは、何かの思考を振り払うように長く目を閉じた。そして再び開かれる時には、ミュゼの言葉を待つように視線を向けているだけ。
「御内密の話がございます。暫く人払いを願いたいのですが、叶いますでしょうか?」
「……武器は、持っておらぬだろうな?」
「何でしたらこの場で全て脱ぎ去っても構いませんが。『月』と名高い貴方様のお眼鏡に叶う裸体ではないでしょうけれど」
「……我を見くびるな、女の裸に狼狽する我ではない」
「失礼いたしました、ディル様。私の首を飛ばす前に、お話だけ聞いていただけるとありがたいのですが」
ミュゼの受け答えは淀みない。頭を下げたまま、敵意は無いと言い続けている。垂れた金糸は一度も震えず、全ての発言が想定済みだと伝えてくるようだ。
二人の問答はそれから二・三個続いたが、折れたのはマスターの方。
「……席を外せ」
その言葉一つで、全員が部屋を出ていく。フェヌグリークの手を引いたのは、またもヴァリンだった。
静かで重苦しい空気は、客席もキッチンも変わらない。最初にミュゼがしたことは、その場に両膝を付く事だった。胸に手を当て、まるで神にでもするかのように恭しく見上げている。その唇には笑みはないが、敬虔なシスターを体現した姿にディルが鼻を鳴らして目を背けた。
「私のお願いを聞き入れてくださり、感謝いたしますディル様」
「……ふん、つまらぬ話であれば斬り捨てる」
「私とよく似た顔に見覚えがおありでしたら、退屈させない話になると思いますが」
「…………」
その言葉で、再びマスターの口の動きが止まる。ミュゼはそれを第一関門の突破だと察した。
話を聞いて貰える。漸く。漸くミュゼの願いの一つが叶う。
「名乗るのが遅れました。私の名前はミョゾティス。エクリィ・カドラーと名乗る男に育てられました」
「……人の名になど、我は興味が―――」
「ウィスタリア、もしくはコバルト。……この名に聞き覚えはありませんか」
「……」
マスターが逡巡する。人の名を覚える性質ではないが、何処かで聞いた名前ではあった気がした。しかし名前自体を聞いても、浮かぶ顔はひとつもない。
「無い、な」
「では、フュンフという名前は。年の頃は……今でしたら四十代かと」
「フュン―――」
その名を聞いた瞬間、ディルの目付きが鋭くなる。二度と聞きたくなかった名前のように、無表情が苛立ちに染まる。
「……其の名を二度と口にするな」
「御存知なのですね?」
「知っている。だが思い出したくもない。奴は我から全てを奪った男だ」
「……御存知、なのですね」
二回同じことを聞いたミュゼの鼻先に、一瞬にして何かが触れた。蝋燭の灯を反射して煌めくのは、彼が引き抜いた剣だった。うわ、とミュゼの口から声が出るが、それだけで動かなかった。
知っているから。動いたら、殺される事を。
「お願いです、ディル様。その名を思い出したくないと仰るなら、ウィスタリアとコバルトの両名を見つけ出してください。まだほんの子供のはずです、もしかしたら孤児院にいるかも」
「……何故我が其の様な真似を?」
「これは貴方が関わる話だからですよ、ディル様。……いえ」
ミュゼは懸命だった。マスターとしても、動いたら首を刎ねるつもりだ。剣を向けられた程度で揺らぐ者の話を、これ以上聞いていたくはなかった。二度と聞きたくないと思っていた名を聞かされたから。
彼の興味が話に移行したのを感じると、耳を隠していた髪を、見えるように指先で掻き上げた。そこから覗く耳の形は、上部がやや尖っている。エルフよりも長さはさほど無いが、『混ざっている』ことが見るだけで分かる形状だ。
マスターは再び言葉を失う。その髪が鈍い銀色で、瞳が灰茶色だったなら、過去に喪った者によく似ていたから。
「……正確には、貴方の奥様の生存についての話です」
「―――」
「ディル様、貴方の奥様は、まだ生きているかもしれない。だから、お願いです」
ミュゼは動かずに、命乞いもせずに、これまで誰にも秘めていた事を話す。
「私は、彼女の血縁なのです」
「血縁―――?」
この男が、過去に妻として傍らに置いていた女との関係を。
「彼女が死んでいたら困る理由が、私にはあります。お願いします。どうか、探してはいただけませんか。……あいつの事、今でも忘れていないのであれば」
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