7
初手はミュゼからだった。槍を両手に、最初の一歩目で大きく床を蹴る。踵のあるショートブーツが、翻るシスター服の間から見えた。
二歩目で、大きく跳躍して部屋のテーブルを踏みつけた。僅かとはいえ高所を取ったミュゼが、勢いを殺さないまま槍を長く持って飛び掛かる。その速さに、アルカネットは初撃を飛び退いて躱す。
ただのシスターではないとは思っていた。しかし、その素早さは想定外だった。動きづらいであろう格好をものともせず、走り、跳ねる。身軽なその手に握られた槍の先が、アルカネットの顔面を狙う。
「っ、!!」
ミュゼはもう笑ってもいない。ただ、アルカネットの動向だけを視界に捉えている。翠の双眸は瞬く回数も減っていた。
アルカネットには分からなかった。何故、そこまであの男と関わりたがるのか。恋愛を絡めた下卑めいた想像が頭を掠めるが、そんな事の為に槍を振るう女には見えなかった。男に喧嘩を売るよりも、直接酒場でただの来客を装って距離を詰めた方が現実味のある話だ。
顔の真横を槍の穂先が通り過ぎる。寸での所で躱しつつ、その疑問をぶつけてみた。
「……俺を通さず、直接酒場に行った方が早いんじゃないか?」
するとミュゼは吐き捨てるように、簡潔に言葉を返す。
「勿論行ったさ。何回かな」
「へぇ、それでどうなった?」
「……顔も見られず奥に引っ込まれたよ!!」
それはミュゼの中で相当な苛立ちだったのだろう。槍捌きに力が入るのが分かって、アルカネットが薄く微笑んだ。感情で鈍る槍なら、勝算は充分ある。
「あいつの他人嫌いは昔からだそうだからな、そりゃ無駄な努力ご苦労さん」
「知ってるよ! あのクソジジイ、私の話も聞かないで!!」
「ジジイ?」
更に煽ろうとしたアルカネットの耳に、噂の彼には不釣り合いな単語が聞こえた。
彼は若い。確かにアルカネットよりは年上だが、ほんの数年の歳の差だ。中性的な美貌で有名な彼にそのような嘲りは似合わない。耳に届いた復唱する声に、ハッとした表情になったミュゼはその足を下げる。
「……クソ、余計な事喋った」
アルカネットの理解の及ばない所だが、ミュゼには意味のある言葉らしい。苦虫を噛み潰したような表情が、舌打ちと共に無表情に変わる。
再び槍を構えるミュゼの顔は、精神の揺れを感じさせない。アルカネットはその表情の変わりように肩を竦めてみせた。
「……俺は、聞きたい事も聞かせない女に協力する気はない」
「何聞かせたら満足するってんだ。どうせ、お前も私の事を気が狂った女だって笑って終わる」
「言っとくが、オーナーだってそうだろうな。俺で駄目でアイツで良いなんて話は有り得ない」
「それでも」
ミュゼが、吼える。
「私が『消えちまう』かもなんて話を、他の誰かに聞かせてたまるかっ!!」
その一度きりの咆哮の直後、再びの槍撃。躱すアルカネットの足先は音を立てて踏み締められて。
「言わんと分からんだろう!!」
咆哮に咆哮を返す。そうして苛立ちに蹴り上げた槍の柄は、穂先を一気に高くに上げる。
「な、っ!」
余所から掛かった力によって、ミュゼの手から槍が落ちそうになる。しかしそれを両手で押さえつけたミュゼは、その状態から横薙ぎにしてアルカネットを狙った。しかしそれでは充分な攻撃法とは言えなかった。力の散漫した槍は、難なくアルカネットの腕に抑えられた。
「……いい。言わないつもりなら、聞かない。喧嘩を吹っ掛けてきたのはそっちだ、こっちも遠慮なく行かせて貰―――」
小脇に抱える形で槍を固定した筈のアルカネットの眼前に、藍色のスカートが翻る。
スカートの中から覗いた白く細い脚が、アルカネットの首に絡みついた。
槍を捨てて即座に攻撃方法を切り替えたミュゼが、飛び掛かったのだ。
「っ、ぐ……!?」
両足の太腿で挟み込まれた首。滑らかな肌の質感を堪能できる状態でないアルカネットは、突然の事に驚いて判断が遅れた。ここまで近接戦に慣れているなんて思わなかった。
「そぉ、れっ!!」
ミュゼはそのまま勢いをつけて、アルカネットの頭に片腕を回して体重をかける。傾いて床に落とすその瞬間、受け身を取れていたのはミュゼだけだった。
ズドン、と床に落ちる鈍い音。ソファもテーブルも無い平面に落としたのはミュゼの恩情だった。ぎっちりと固定した脚を解く頃、痛みで呻いているのはアルカネットだけ。その場から二歩ほど離れたミュゼは、まだ死んでいない筈のアルカネットの顔を覗き見る。
「……私を甘く見た罰だな。これで私をあのクソジジイに取り次ぐ気になったか―――」
「そこまでにして貰おうか」
覗き見た、そこまでがミュゼの油断だった。
アルカネットとは違う男の声がする。聞こえた方向には、フェヌグリークしかいない筈だったのに。
振り返った先に、フェヌグリークは確かに居た。しかし、第三者の手で口許を覆われて。そしてその喉元には、短剣が突き付けられている。
「立て、アルカネット。流石にその姿は情けないぞ」
ミュゼが目を見開いた。フェヌグリークに確実に危害を加えるその男には全く見覚えがないからだ。
着ている服は夜の闇に溶け込むような黒と青を混ぜ込んだような前開きの濃紺の外套、中に見える服は純白とまで思わせる汚れのないシャツ、それとは対照的にどんな光も吸い込んでしまいそうな黒のズボン。顔に視線を向ければ外套と色は同じだが滑らかな質感をした首に掛かる程度の短髪、前髪は頬に掛かるまで伸びている。その間から見える瞳は冷たく、ミュゼとアルカネットを交互に見比べていた。
震えて涙目のフェヌグリーク。しまった、とミュゼが思った。音もなくこの建物に侵入され、その気配に気づかなかったのはミュゼの責任だ。戸惑うその視界の端で、アルカネットが頭を擦りながら立ち上がる。
「………お前が来たのか」
アルカネットとその男は知り合いのようだった。しかし、お前と呼んだその声からは親しさが感じられない。
「余分な仕事を回すな、俺だって忙しい」
「知っている。来なくても良かったんだぞ」
口振りから察するに、あの酒場の関係者。ミュゼが前後を男二人に挟まれて、初めて焦った顔を見せた。
その姿を見ながら、濃紺の髪の男が口を開く。
「………、成程」
その顔にも驚愕の色が一瞬見えたが、次に見せるのは不快の色。
「『その顔』だから、手加減したという訳かアルカネット」
「……馬鹿言え、俺がそんなことする訳ないだろう」
「ほう? では純粋な力比べで負けた、とでも? それであのギルドの一員か、嘆かわしい」
尊大に聞こえるその口振りは、圧倒的な余裕を感じさせられる。
男の腕の中のフェヌグリークの瞳からは、恐怖のせいで涙が流れていた。その頬に顔を近づけた男は、口許に笑みを湛えて語り掛けた。
「怖いか? 黒髪のシスターというのは俺の好みでは無いのだが……死ぬのが嫌なら、また別の方法で苦痛を感じて貰ってもいいぞ?」
その一言で、フェヌグリークの体が大きく震えた。言葉の意味が理解出来たようで、また一筋恐怖の涙が流れ落ちる。
「ヴァリン!!」
「テメ、この野郎殺すぞ!!」
アルカネットとミュゼが同時に声を張り上げた。二人からの怒声を受けて、ヴァリンと呼ばれた男が笑いながら顔を離す。
「冗談だ。俺だって別に青臭い女を甚振る趣味はない」
そうして男は、フェヌグリークへの拘束を解いた。途端に床に崩れ落ちる。顔を覆い出し、声を殺して泣きだすその儚い姿に、駆け寄って抱きしめる者は誰もいない。
ミュゼはまだ男二人に注意を払っている。アルカネットは、もう妹を抱きしめる資格がないのだと分かっている。
「さて、面倒な話になっているようだが……どうする、アルカネット」
「どうする、って……」
「この二人を引っ立てない訳にはいかんのだろう? 見られたとなれば、処遇はあいつに決めて貰うしかない」
「処遇、……」
アルカネットの顔から血の気が引く。あの男に、妹とその同僚の生き死にを決めさせるというのは、ほぼ処刑宣告だった。
あの男が、簡単に解放してくれる訳はない。それが女子供だったとしても。
「さて、お嬢さん。立って頂こうか」
「い、たっ……!!」
言葉の柔らかさとは裏腹に、ヴァリンはフェヌグリークの髪を引っ張って立たせる。呻く声も聞こえない振りで、その唇に再び笑みが浮かぶ。
「安心しろ、俺よりディルの方が慈愛に満ちている。……苦しませずに殺してくれるだろうよ」
浮かぶのは嗜虐の笑み。
ミュゼはその顔を見ながら、逆らう選択肢は消え失せているのだと思い知る。
アルカネットも、未だ痛む頭と首を擦りながら目を閉じる。非力だから折られなかっただけで、これでミュゼに力があれば即死していてもおかしくなかった。
「……そいつを殺すってんなら、俺が大人しくしてないぞ」
「っはは、お前がか?」
ヴァリンの哄笑が室内に響く。
「止めておけ、あれが本気になったら全員細切れにされて終わりだ。……全く、恐ろしい男だよアイツは」
その哄笑に、自棄が含まれているのはアルカネットしか気付けない。
ひとしきり笑ったヴァリンは、先程の手荒さとは打って変わって、次は優しく付き添うようにフェヌグリークの手を取った。その差に一番戸惑っているのは当のフェヌグリークで、まるでそういった事に慣れているかのような自然な所作に指先までが震える。
「逃げようなどと思わないように。死体を隠蔽する程度の作業、俺達は慣れてるからな」
優しくしておいて、無慈悲な言葉を掛ける。その温度差に怯えたフェヌグリークと、人質を取られたミュゼ。
二人は既に、諦めるしか選択肢が残っていなかった。
建物を出る四人。ミュゼとフェヌグリークは、頭巾を被る事を強要された。
ヴァリンから「書類は」と問われて、アルカネットが首を振る。
「そうか」
返事は素っ気なく。
そしてやや乱暴な手つきで、フェヌグリークの手からカンテラを奪う。
何を、と誰もが問いかけた。しかし、その声を待たずしてヴァリンがそれを室内に投げ入れた。
「じゃあ、ここの仕事はこれで終わりだ」
カンテラは布を被せられた、芸術品という耳障りのいいガラクタにぶつかって割れた。そして、焦げ臭い臭いと共に火が広がる。それきり、もう興味を失ったかのように、ヴァリンがフェヌグリークの手を優しく引いて歩き始めた。
「戻るぞ」
その後の建物の様子を見続ける事も許されず、四人がその場を後にする。
最後まで足を止めていたのはアルカネットだった。しかし、ほんの少しの遅れを生じただけで、他の三人と共に歩き出す。
火事の発生を告げる鐘が鳴りだすのは、それから暫くして。
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