6


 アルカネットは血溜まりに沈む入り口を放っておき、壁掛けにあった蝋燭を手にして他の蝋燭を消してから建物の奥に進んだ。奥の一部屋は炊事場らしく水が汲んであったので、それで汚れた手を清める。手拭きでもあれば良かったのだが、そういった布などは置いてなかったので濡れたままの手で状態を確認する。

 炊事場と言っても、調理道具や食事の材料などは置いていなかった。ただ、どこかの店で買って来たような軽食の残骸が残っているだけ。羽虫が飛んでいるので、衛生状態はとても悪い。勝手口のようなものは見当たらず、換気口のような小窓が天井近くの壁にひとつあるだけだ。

 何か書類は置いていないか確認する。今はもう物言わぬ死骸になっている男達の『仕事』に関係していそうなものがあれば、それも提出するように言われていた。……見つかったのは、隅に隠れていたネズミと虫くらいなものだったが。

 建物は二階建てだ。上に繋がる階段は、最初の部屋と炊事場を繋ぐ廊下の影にあった。その階段に背を向けて、もう一つの部屋を見る。そこで見たのは、アルカネットさえも顔を顰める光景。

 息を飲んだ。今まで気づかなかった異臭は、その部屋へ入った瞬間鼻に訴えてくる。思わず鼻を手で覆った。


 幾つもの壊れた椅子。

 散乱した服の切れ端。

 床に広がる、白と赤茶。それから吐瀉物。

 開錠された手枷と足枷、それを繋ぐ鎖の先には錆びた鉄球。


 そこは監禁部屋のようだった。

 鉄球の数を数えると、五人くらいは拘束できそうな数だ。猿轡にでもしていたのだろうか、汚れた布もそのまま放置されていた。

 目視で理解出来るところで言えば、赤茶は既に乾いているようだ。なら、白は。……理解してもそれを思考したくないので、アルカネットが目を逸らす。それは気持ちの悪い情欲の発露に他ならないのだろう。外から盗み聞いていた『出荷』が済んだ後なのだから、今はもう手遅れになってしまったその状況は、アルカネットの心を乱しはすれどそれ以上を考える余裕のない今はどうしようもない。

 ざっと見ても、そこには重要そうな手掛かりは落ちていない。アルカネットが早々に部屋を出ようとした時、その耳に異音が届く。


 鍵が開く音。


 出入り口は一つしかないのは、事前情報から知っていた。開錠できる鍵があるのは、未だ見てない二階を覗けば一か所しか知らない。

 アルカネットの瞳が見開かれた。仲間が他にもいたなんて聞いていない。いや、『廓』とやらの者が何かしらの用で出向いて来た、という可能性も考えられた。

 しまった、と、アルカネットの脳裏に言葉が過る。皆殺しにして、鍵を掛けたからと油断して、探索に邪魔になるからと武器はそのまま置いてきてしまったのだ。

 勿論、素手でも大抵の相手を沈める事は出来る。部屋の入口の影に身を隠して蝋燭の火を吹き消し、来訪者の様子を窺った。

 扉が開いたようだ。入って来た足音は二人分。「ひ、」と、誰かが息を飲む音が聞こえる。

 見てしまった。見られてしまった。アルカネットの額に冷や汗が滲む。足音は踵を返すこともせず、律義に扉を閉めて、鍵を掛けた。

 足音が、アルカネットの居る部屋にまで響いている気がする。ヒールで床を叩く音は、まるで女性が出しているようだった。ひとつの足音は平然と歩いているように聞こえるが、もうひとつの足音は躊躇いがちだ。

 二人。それも恐らく、片方は女。誰でもいい、構わない。こんな地獄に来るような女なら、同じように物言わぬ肉塊として転がしていてもいいだろう。


「―――ふふ」


 アルカネットの耳に、鈴を転がすような音色の笑みが届いた。そして。


「『主アルセンよ その眼に捉え給う 我等の栄えある この世界を』」


 場にあまりにも似つかわしくない、賛美歌が聞こえた。

 讃美歌は、この王国を建国したと言われる神であるアルセンへ向けたものだ。神職関係者なら誰もが知っている。アルカネットだって、孤児院にいた頃に歌わされた記憶がある。その歌声は、大きくなくても耳障りだ。

 よくもあんな惨状を見て、そんな歌を平然と歌える。不愉快で仕方なくなったアルカネットは、知らず奥歯を噛みしめていた。


「『主アルセンよ その愛を注ぎ給う いと尊き父の 愛を子へ』」


 ただその歌声を聞きたくなくて、耳を塞いだ。

 しかしその声はまるで皮膚から骨を伝って頭に響くようだ。聞き覚えの無い歌声に、心が搔き乱される。

 すると讃美歌は唐突に止まる。もう何番目まで聞いたか覚えていないアルカネットだったが、耳から手を外したところで、再び声が聞こえた。


「いらっしゃるのでしょう、アルカネット様」


 ―――アルカネットが凍り付いた。

 讃美歌といい、その声といい、自分に向けるその呼称といい。


「……アリィ……」


 来訪者二人目の震える声に、思考さえ停止する。

 なんでここに、という疑問は出てこなかった。

 だって、薄々気付いていた筈だ。

 アルカネットが何故あそこまでの大金を、孤児院に寄付する事が出来るか。

 アルカネットが何故、孤児院で遠巻きにされているか。

 言い訳なら無意識に、ひとつでもふたつでもすぐに思いつく。でも言い訳で流されてくれる女だとは思えなかった。特に―――讃美歌を歌っていた方の女は。


「出ておいでなさい、アルカネット様。死したものへの、旅立ちのお祈りは済ませたのですか?」


 まるで就寝前の祈りを促すときのような声色で、その女がアルカネットを窘めた。

 アルカネットは、足が動かなくなった。

 見られたくない、知られたくない、でも今更無かったことになんて出来ない。

 知られているだろうと思っていても、実物を見られるのはこんなにも心が苦しくなる。


「アルカネット様、隠れていらっしゃるのでしたら」


 女の声が、様子を窺うように途切れ途切れで聞こえる。


「―――ココ、燃やすけどいいかぁ?」


 焦れたようで、でも楽しそうな声が聞こえる。何かが燃えたような焦げ臭い臭いがアルカネットの鼻をついた。ち、と舌打ちしたアルカネットが仕方なしとその場を出る。

 手持ちの蝋燭は消しているが、出入り口の壁掛け蝋燭はその部屋を照らしていた。アルカネットは火を消してから奥に入った筈だった。そう思っていたら、女の手元にあったカンテラでその理由を察する。点けたのだ。火を。新しく。

 その灯りは女二人の姿を、うっすらとだが浮かび上がらせている。頭から服と同色の頭巾ウィンブルを被っていた二人だがアルカネットの姿が見えると顔の部分を引き上げて見せた。

 ミュゼと、フェヌグリーク。

 二人の姿に、アルカネットの唇が引き結ばれる。足元には死体が転がるこの部屋で、二人の姿はあまりに不似合いに思えた。

 ミュゼから程近い壁掛けの蝋燭の下で、紙片らしき何かが燃えている。先程の異臭はこれだろう。


「漸く出てきてくださいましたね、アルカネット様。この奥を探しに行くのはちょっとご遠慮願いたいところだったので、助かりますぅ」


 これまでに聞いた事のない、粘っこい媚びた声を出すシスター・ミュゼ。

 二人は、いつもと変わらない藍色のシスター服を着ていた。確かにこの色なら、宵闇に紛れやすいだろう。鍵はどうやって開けたのだ、とアルカネットが言わずに考えていたら、ミュゼが手にしていたもので理解した。

 三本の針金。淡い灯りを反射するような金属の光は、彼女の鍵開け能力を暗に示していた。


「……シスターが、鍵開けとはな。あまり行儀が褒められたものじゃないな?」

「これでも役に立つのですよ? 鍵を持って個室に引きこもった子を引きずり出すのに、鍵開け出来るシスターは私だけですし」

「だからと盗賊の真似事か。俺はちゃんと先客が扉を開いてくれたぞ」

「先客って」


 ミュゼの足元で、何かを軽く蹴る音が聞こえた。それに動揺したのはフェヌグリークだけ。

 床に転がる物言わぬ死体を足蹴にした。それは聖職のものなら有り得ない行為。


「こいつらの事?」


 そう笑顔で問いかけるミュゼは、これまで誰にでも見せていた柔和なシスターの微笑ではなく、どこか箍の外れた生き物の顔。

 アルカネットの背筋に、再び何かが駆け上がる。その顔が、自分の知っている者と酷似していて、でも彼女からそんな表情は見た事は無くて、頭が混乱する。その顔で、そんな表情をするな、と、アルカネットの口をついて出てきそうだった言葉は、必死の思いで飲み込まれた。


「アルカネット様、思い違いですよ。祈りを終えたら魂は神の御許へと向かい、残るは既にただの肉。肉体はただの容れ物に過ぎず、あとは蛆がたかるだけ。我々の爪先と蛆、どちらも命の尊さの価値は変わりませんから」

「……蛆と同格に置かれるのも不愉快なものだな」

「そこまで自尊心が高いのでしたら、私から敢えて言う言葉はございません。けれどそれは同時に『思い上がり』というものですよ?」


 ミュゼは、その場でフェヌグリークに持っていたカンテラを渡した。持たされたフェヌグリークは手が震えていて、光が小刻みに揺れる。

 針金を髪の毛に通し、ミュゼは空いた手で床にしゃがみこんだ。再び立ち上がった彼女が手にしていたのは、死した男が持っていた槍。


「アルカネット様」


 槍を手にするその姿は、普通のシスターでは有り得ない。


「もう一度お願いしたいのですけれど。私を、ディル様に取り次いでくださいません? ……今からでも」

「……それが目当てで俺を尾行してきたのか?」

「違います、って言ったら白々しいですね? ……尾行を提案したのは貴方様の妹君ですけれど。女泣かせは罪になりますね?」

「白々しい女の相手は飽きている。フェヌ、お前は兄の事も信用できない妹だったか?」


 アルカネットから名を呼ばれたフェヌグリークが肩を震わせた。カンテラの灯程度ではその顔色をはっきりと確認することは出来ないが、消えた表情がその胸の苦悩を物語っている。震える唇が、やっとの思いで開かれた。


「……こんな時だけ、兄貴面しないでよ……!!」


 この惨状を作り出したのは、兄以外有り得ない。それが分かっているから、瞳には涙が浮かんでいる。

 妹の涙を見ても、アルカネットの心には小波程度の感情の揺れしか起きない。自分の為の涙だと、分かっていても今は煩わしいだけだった。

 アルカネットが裏でしていた事を、薄々感じていたんだろう。そしてこんな所まで来て、見てしまったのは自分の責任だろう。なのにまた勝手に涙を流して前に立つ。これだから、女は嫌になる。


「そうか。じゃあ、ここに居るのはお前の兄じゃない」


 アルカネットにとって、それは最後通告。


「悪い夢を見たと思って、帰れ。でなければ、俺はお前に相応の事をしなければならない」


 その通告を以てしても、ミュゼの笑顔は剥がれなかった。


「相応、上等。私は急ぎの用事があるんです、ちょっくら痛い目に遭って貰ってでも、ディル様へのお目通しをお願いしたいんですよ」

「……本気か?」

「本気も本気、大本気。……御託はいいんだよ、始めようぜ」


 ミュゼが槍を振るった。風を切る音は、扱いに慣れている者の証。金の髪が、後頭部で揺れる。


「そっちの方が、私がどんだけ本気かってあちらさんに分かってもらえるだろ?」

「………覚悟は出来てるんだろうな」

「覚悟?」


 ミュゼの表情が険しくなる。


「何。………殺してほしいっての?」


 その顔が、アルカネットの中で記憶にある女性の顔が重なる。

 何度も現実で見て、夢にも見て、その死の理由を問い続けた。

 アルカネットにとっての彼女は、褒められた人格をしていなかったけれど、それでも。

 それでも、彼女は、アルカネットにとってある意味で『特別』だった。


「……その大口、後悔しないといいな」


 彼女が重なるミュゼの表情に、安心感さえ感じる自分が嫌になりながら、アルカネットが苦笑する。

 アルカネットだって、ミュゼが軽んじられないくらいには強いつもりだ。その余裕ぶった表情を、苦悶の顔に変えてやりたくなる。


 ミュゼの苦しむ顔を見さえすれば、記憶の中の『彼女』と重なる事は無くなるだろう。

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