3
通された応接室は、昨日来た時と少し様変わりしていた。
扉も壁も、低く古いテーブルだって昨日と同じ。しかしそのテーブルを挟むように置かれていたソファは、昨日まで色褪せて穴が開いた固いものだった。今日そのソファの位置にあるそれは、深緑の三人掛けで、見た目で分かるだけでも値段を感じさせるしっかりした作りのものだ。
来客用のティーセットを盆に乗せて持ってきたシスター・ミュゼは、アルカネットがソファを見つめたまま座らないその様子を見て、おかしそうに微笑を浮かべた。
「今日の朝に届いたんですよ」
「随分と奮発したな」
「大事な『お客様』に座って貰うんですもの、このくらいの還元は許されたいものですよ。……さ、お座りになってください。最初に腰掛けていただくのはアルカネット様と皆で決めたんです」
―――つまり、このソファはアルカネットがこの孤児院に『寄付』した金で購入したものだ。
アルカネットがその言葉を受けてから、張りのあるソファに腰掛けた。新品特有の不思議な匂いがするが、悪い気はしない。
「別に、俺は俺が渡した金をどう使おうが文句はない。その為に渡してるんだからな」
アルカネットは、この孤児院に個人的に寄付をしている。
それは仕事で自分が稼いだ金だ、アルカネットの財布事情は同年代の男のそれより潤っている自信がある。孤児院の財政事情は、自分が『居た』事もあるから知っている。だから、この孤児院に関わる者達が不自由しなければいい。
ミュゼが紅茶を注いだカップとソーサーをアルカネットの前に出す。それから、お茶請けのクッキーも。クッキーには見覚えがある。五番街に店を出している菓子店のものだ。
「でも、シスター・フェヌグリークが心配していましたよ。……自警団員の給金にしては、渡してくれる額があまりに多いんじゃないか、……って」
髪と同じ色の金の睫毛で縁取られた瞳が、流し見るようにアルカネットに向いた。その一言で、アルカネットの手がカップを取る前に止まる。僅かな動揺に気付いたのか、ミュゼが盆を両手に持ち、それで口許を隠すように位置付けた。
「アルカネット様、ご無理はなさらないでくださいね? 貴方に何かあったら、私は、いえ、私達は……」
その言葉が言外の意味合いを持っているような気がして、アルカネットが鼻で笑う。
「……俺がどうなるって言うんだ」
「体を壊されたり、……危ない事に関わる事になったり、ですかね?」
淀みつつも答えるミュゼの様子は、心が荒んだアルカネットにとって少しの苛立ちを感じさせるものだった。
金を持っていると知れば、これまで知り合った女はアルカネットに言い寄って来た。どんなに貞淑な見た目をしていても、中身は強欲なものばかりで。『またか』、と、アルカネットの頭に浮かぶ。付き合いの浅いシスター・ミュゼにそんな猜疑心を抱くのは、これまで経験してきた幾つもの嫌な事例を思い出したからだ。
アルカネットの指が、カップの取っ手を掬った。そして平静を取り繕いながら、紅茶を飲むために口に運ぶ。
「俺をどうにか出来る奴なんて、居ない。……変な事を言うな、調子が狂う」
ミュゼは、見える範囲である目元だけで笑って見せた。そして。
「……いらっしゃる、でしょう?」
聞こえたその言葉に、アルカネットが耳を疑う事になる。
「……いる、って」
「私、お話だけは伺っていますので。……そう、お住まいの酒場の、マスターの話を」
「っ……!!」
あの人物を連想させる単語二つだけで、アルカネット表情が険しいものになる。乱雑にカップを置き、不愉快を隠さない顔でミュゼに向き直った。
「……あいつの話は聞きたくない」
「何故です? あの方は、貴方の―――」
「聞きたくないと言ってるだろう!!」
声を荒げたアルカネットを、翠の瞳が見ていた。その視線は、アルカネットの怒声くらいでは逸らされない。
この瞳が苦手だ。アルカネットは昔に居なくなってしまった女のそれと重ねて見て、思い出していた。男女の関係があった訳じゃない、けれどそれよりもっと面倒臭い関係だった。苦手だったけれど、嫌いじゃなかった。そんな、馬鹿な女の事を。
ミュゼの瞳が歪んだ気がした。盆に隠された口許が、アルカネットには見えないのに弧を描いているように見える。
「……そうは仰られましても」
ミュゼがその場に盆を置いた。
「こちらは知りたいんですよ。……『ディル』様、その男について」
そして見る事が出来たミュゼの口許は、アルカネットが予想していたものよりもっと深い弧を描いていて、その表情の変容ぶりに驚いた。
アルカネットの知っているシスター・ミュゼは、もっと穏やかで落ち着いた淑女のような女性だ。美人で、けれどそれを鼻に掛けたような態度は取らなくて、白薔薇を思わせる美貌を持った孤児院のシスター。
アルカネットが瞳を逸らす。しかしミュゼは、その逃がした視線の先に潜り組むように、近付いて顔を覗き込んできた。
逃げられない美貌の主がそこにいる。
「どういう事ですか、私が知っているのは、あの酒場は確か……貴方のお姉さんの持ち物ではなかったですか?」
「っ、……あいつは……俺の姉じゃない」
「知っています、聞きました。……失礼、『調べました』。孤児である貴方が引き取られたあの酒場で、先に養女として暮らしていた女性」
ミュゼの口からその言葉が出た瞬間、アルカネットの脳裏に鮮やかにその姿が蘇る。
鈍い銀色をした長い髪。そこらの女なら霞ませる事が出来る程の美貌。底抜けかと思う程に明るくて、口を開けば煩くて、そこまで強くないのに酒が好きで、そして、そんなあいつが何より好きだったのは。
「名前は―――」
「思い出させるな!!」
アルカネットの再びの怒声は、ミュゼの口からその名を出させない事には成功した。しかし。
「……思い出して貰わなきゃ困んだよ、こっちは」
その怒声がミュゼの態度の豹変を誘う事になってから、アルカネットは瞠目する。
落ち着いた態度で一回咳払いしたミュゼは、先程の荒い発言を撤回するかのようにいつもの微笑みを浮かべて見せた。
「私、ですね? その『彼女』と少しばかり縁がありまして。でも、もう亡くなったと聞かされて、正直驚いているんです。私、それで『彼女』について色々と知りたい事がありまして。……ねぇ、アルカネット様」
「……知りたい、事?」
「ディル様まで、私を取り次いでくれません?」
「は、っ……!?」
シスターから出された提案は、アルカネットにとってこの上なく嫌なもの。咄嗟に出た声と同時に首を振って拒絶の意を示す。
それを見たミュゼは、興醒めしたとばかりに微笑みを消して真顔になった。
「……私だって、アイツの事知らんとどうしようも無ぇんだよ。アイツがまだ生きててくれないと、こっちとしちゃマジで困るんだ」
「……お前、何を」
「頼む、私は一体この国で何が起きてるのか分からないんだ。私の知ってるアイツは、まだ生きてる筈だ」
「生き、―――?」
アルカネットには理解出来なかった。
確かに、アルカネットは『彼女』の死をその目で確認した訳では無い。ディルから遺体の一部と言われて見せられたそれが、彼女の死を伝えた。他の部位は発見されなかったと言われたが、もし。もし、彼女が生きているのなら。
アルカネットの脳裏に、彼女の笑顔が浮かんだ。あまり見た回数も無かったそれは、自分の育ての親と共に居る時に見せていた笑顔。そして―――ディルと並んだ時は、いつもその顔だった気がする。
「……あいつが生きてたら、どうするんだ」
「どうするって……? 私に、アイツに何かして欲しいか?」
「いや、だが」
「取り次いでくれ。じゃねえと、私は前にも後にも進めない。何をしていいかが分からない。アイツに生きてて貰わないといけない理由があるから」
ミュゼの口調は強いもの。そして、揺るがない。
アルカネットは溜息と共に俯いた。ディルの事は嫌いだ。大嫌いだ。けれど、彼が今の状態まで無気力になった理由を知っているから、幾ら嫌いでもあの酒場を離れられない。
あの男は、『あいつ』を。―――妻を、亡くしたのだ。
「……シスター・ミュゼ。……あいつと、どんな関係だったか聞いてもいいか」
「アイツと? ……あー」
その質問を投げかけた途端に、ミュゼの表情が強張った。その躊躇いは、聞かれたくないものの話の時によく見るような態度に似ていて。
困ったように、ミュゼが笑う。アルカネットに向けて、シスター然とした時と同じように。
「……ディル様には言えるかも知れませんが、アルカネット様だと混乱させかねませんから」
「俺じゃ駄目って訳か? ……意味が分からないな、オーナーの方が話を聞かない節があるのにか」
「それでも、ですよ」
口を割ろうとしないミュゼに、多少面白くない気分になりながらもアルカネットは残りの紅茶を飲み干した。菓子には手を付けず、そのまま置いておく。恐らく、このままにしておけば誰か子供の口にでも入るだろう。
クッキーが乗った皿を残し、ミュゼがテーブルの上を片付ける。盆を手に下がっていくミュゼの背中に、アルカネットが声を掛けた。
「……この時間は多分、オーナーも寝てるだろうから……来るなら、夜が良い。閉店後くらいの時間に」
「そうなんですね。……分かりました、ありがとうございます。今晩にでもお邪魔いたします」
「今晩―――」
そう言われてアルカネットの言葉が止まった。同時に眉間に皺が寄る。
突然の訪問予告に焦ったのもある。けれど、それよりも。
「……どうされました? もしかして、ご都合が悪い……とか」
「……、あ、ああ、まぁ……そうだな」
『仕事』がある。
それも、自警団の仕事ではない。もっと暗く、昏い、この孤児院の者は勿論日の光の下で暮らす者には言えそうにない話。
口ごもるアルカネットに、ミュゼが怪訝な顔をする。しかし、その表情もすぐに消し。
「……お忙しそうですものね。最近は物騒な事件も多いとかで、孤児院でも子供達に何もなければいいと心配しているんですよ」
「そう……だな。いや、その心配は……させないよう、自警団でも……気を、つける」
「はい。頼りにしていますから」
ミュゼは唇を歪めて笑った。
「本当に。……頼りに、していますから」
目を逸らしているアルカネットには、ミュゼの瞳が笑っていないのに気付けない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます