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自由国家アルセンの城下には十を数える地区がある。呼び名は街だが、それぞれがそこまで広い訳ではない。街から街の移動に関しては、多少差はあれども一時間程度で出来る。
アルカネットが成人とされる十八を迎えてからは、酒の味も煙草の不味さも覚えさせられた五番街。言葉は無くても不自由なく暮らせるアルカネットの住処。
……街自体は気に入っている。自警団の仕事もだ。けれど、どうしても帰る家にしている酒場には好感を抱けなかった。
日光に焼けた、安っぽい木造りの扉に手を掛ける。押すだけで開くその奥は、物々しい男ばかりが集まる自警団の詰め所に相応しい広い空間だ。入ってすぐに事務員が勤務している小部屋と、そこから繋がるカウンターが見える。来客用の個室といったものは存在しておらず、奥の方に幾つかの簡単な仕切りがあるだけ。一階には長方形の四人掛けテーブルが幾つも置かれていて、基本的に自警団員はそこで待機する。二階には仮眠用の部屋があり、夜にはそちらに人が集まる。
詰め所の建物に入ると、事務員の一人がこちらに気付いた。何かを言いたげに開いた唇は何も語る事をせず、カウンダ―を挟んでアルカネットに近づいていく。その事務員は栗色の髪の女性で、物憂げな視線を逸らしている。
「……給料なら、もう払ったわよね?」
「出勤の確認だけだ、無心まではしない」
「そう」
アルカネットが素っ気なく返したその相手は、浅からぬ縁がある女だ。ちゃんとした関係を約束した訳では無いが、この女の家に何回か寝泊まりしたことがある。酒場に帰る事が耐えきれず、雪崩れ込むように家に上がり込んだ。その服の中まで見た事もあるが、アルカネットには恋や愛といった情は無い。
壁に貼られた勤務表を見て次の自分の勤務時間を確認した後、中の椅子に座り込んで、机に肘をついて頭を抱える。酒場のマスターと話した後はいつもこうだ。一秒だってあの男の側に居たくなかった。居たら頭が痛くなって気が重くなる。
「……アルカネット、今晩暇?」
女の口から、問いかけが聞こえた。
「……暇じゃない」
「たまには私のお願い、聞いてくれたっていいじゃない」
「お願い、か」
何かを期待するような女の言葉に、アルカネットの眉間に皺が寄る。
「そういうの持ち出してくるんなら、金輪際関わらないと言ったはずだが」
「っ……」
「別の奴当たれ。お前は俺じゃなくても良いって言ってただろ」
「それとこれとは違うもの!」
女の言葉を突き放しながら、アルカネットが立ち上がる。こうなるかも知れないと思っていたからこそ、あまり日常に関わりのある女とどうこうなりたくはなかったのだが。
尚も言い募ろうとする女の言葉を聞かない振りで、何も言わずアルカネットが詰め所を出ていく。扉が閉まった音を聞いて、女が肩を落とした。
「ミモザ、また振られたのか」
「団長……」
そんな女に声を掛けたのは、事務員詰め所から出てきた男だった。身長は高いわけでは無いが筋肉の付き具合が強烈で、獣を思わせる目と刈り込まれた茶色の髪。人相は最悪と言っていい程な上、左頬には今も癒えない切り傷痕がある。
ログアス・フレイバルド。この見た目でも自警団の団長を務める男だ。初対面の子供を例外なく泣かせてきた事から付いた二つ名が『子泣かせ筋肉』。
「良いんです、分かってますから。アルカネットは最初からあんなでしたし」
「最初から、なぁ」
アルカネットが去った後の扉は、その後誰も行き来する様子が見えない。
「昔は違ったんだぜ。もうちょい人の心ってのが分かる奴だった」
「え……?」
「そうだなぁ、何年前かな。アイツの育ての親が死んでから……いや」
ログアスは昔を思い出すように遠い目をしながら、まるで人が変わってしまったアルカネットの事を考えた。昔は、少しばかり抜けてて、けれど優しい自警団員だった。面倒見も良くて、ログアスも将来的に彼に役職を与えようと思っていた。……けれど。
「……アイツの住んでる酒場が、今のマスターに代替わりしてからかな」
先々代と、先代のマスター。
僅かな期間で、アルカネットが失った『身内』。
そして新しく酒場を継いだ男と反りが合わないのはログアスだって知っている。現マスターを勤めるあの男の事は、ログアスのような者もその名を聞いたことがある。
「マスターの代替わりって……ああ、戦争で」
「そうだなぁ。……まぁ、アレだな。失って分かる感情ってのもある、ってやつだな」
「なんですか、それ」
「何でもねぇ。さ、仕事の続きだ」
ログアスはそれだけ言って事務室に戻っていく。ミモザと呼ばれた女もその後を追った。女の顔は晴れないが、それはログアスも同じだった。
戦争に参加していないログアスには、その場で何が起こったかを断片的にしか知らない。けれどそれが齎した結末は、誰もが望まなかった世界であるというのは確実なのだ。
アルカネットが次に向かったのは、部屋を借りている酒場ではなかった。酒場とは逆の通り、五番街の端に近いとある孤児院。
手狭ではあるが空気の良い静かな場所に建つ教会付きの私設孤児院だった。すぐ側には川が通り、洗濯をしているらしいシスターの姿が見える。
その建物が見えるまで近くに行くと、庭で子供達と遊んでいるシスターの姿が見えた。藍色のシスター服を纏った女性の髪は黒く、まだ少し幼い顔立ちの快活な笑顔がアルカネットに気付いて向いた。見た目としては成人前後だろうか。……そんな彼女は、アルカネットの姿を認めると同時に笑顔を消して視線を僅かに逸らす。周りの子供達に一声掛けて、そのシスターの姿がアルカネットに近づいてきた。
「……。どうしたの、アリィ。今日も来るなんて、珍しいね」
アルカネットと同じ髪の色、瞳の色の彼女の瞳が、漸くアルカネットに向いた。そうして言われた言葉に、アルカネットの眉間に皺が寄る。
フェヌグリーク。アルカネットと同じ日、同じ時に孤児院に捨てられたこの孤児院出身のシスターだ。見習いではあるが、勝手を知るシスターとして重用されている。
彼女からの言外の『来るな』を感じ取ってしまった。昨日も来たばかりのアルカネットに、続けて来られると迷惑だと、そう言われている。しかしその意思を感じ取らなかった振りを続けて、アルカネットが声を返す。
「俺の実家みたいなものだからな。俺がいつ来ようと勝手だろ」
そう言うとフェヌグリークは、唇を引き結んでしまった。昔は仲が良かった筈の兄妹だが、いつからか二人の関係は変わってしまっている。その始まりがいつだったかなんて、アルカネットはもう覚えていない。
遠くで二人の様子を見ている孤児院の子供達は、近寄ってくるような事をしない。黒一色の男の姿を、まるで死神でも見るような表情で怯えながら様子を窺っているようにアルカネットには感じられた。
「まぁ……、確かに、お前達にとっての俺の存在なんて、金にしか価値はないだろうが」
そんな自虐めいた言葉に、フェヌグリークは首を振る。
「そんな、そんな事、ある訳ないじゃない。アリィは私にとって大事な、……お兄ちゃんだもの」
「大事、か」
その言葉は、荒んでしまったアルカネットの心を僅かに癒す。しかし既に砂漠となってしまった所に一滴の清水を落とした所で、何かが変わる訳でもない。それきり沈黙してしまった二人に声が掛かったのは、丁度その時だった。
「ようこそ、アルカネット様」
それはアルカネットも何度か聞いた声。後頭部で揺れる一つ結びの金髪は、まるで絹糸のような滑らかに左右に触れている。二重の奥の翠の瞳は、フェヌグリークとは違い真っ直ぐにアルカネットを見ていた。口許には柔和な笑みを浮かべ、纏う服もシスター服。
「シスター・ミュゼ……」
その名はフェヌグリークの唇から漏れた。
ミュゼ、と呼ばれた女性はフェヌグリークよりも年上だろう。フェヌグリークが野の小花のような愛らしさなら、ミュゼの美しさは白薔薇だった。そしてアルカネットは、その花を連想させる外見にどうしても好意を感じる事が出来なくて、視線を逸らしたのはアルカネットが先になる。
似ているのだ。過去に居なくなってしまった女と、どことなく。
「今日もいらしてくださるなんて思いませんでした。どうぞ紅茶でも飲んでいってください」
苦い記憶を想起させるその顔が誘いの言葉を掛け、アルカネットは断る理由を思いつかず軽く頷いた。
笑みを深めるシスター・ミュゼは、敷地外と孤児院の庭を繋ぐ門の扉を開いてアルカネットを招き入れる。そしてフェヌグリークへと振り向いて。
「シスター・フェヌグリーク。向こうで子供達が待っていますよ、すみませんがもう少し相手してあげてください」
まるで追い払うような言葉だ。しかしフェヌグリークは一度しっかりと頷くと、もうアルカネットに振り返る事もせずにそのまま去ってしまう。
招かれるまま、先導されるままアルカネットがミュゼの後ろを進んだ。
「俺はどうも、嫌われているらしいな」
呟いた言葉には、ミュゼも苦笑を浮かべるばかり。
「そういう訳では無いと思いますよ。……確かに、子供達の中には大人である貴方への接し方に困っている子もいるみたいですけれど。」
「それを『嫌い』って言うんじゃないのか。……別に俺は、この孤児院の連中が不自由少なく生きていけるならそれでいい」
アルカネットの本心は、その言葉に集約されている。その為に、アルカネットがして来た事は決して褒められたことではないが。それどころか、蔑まれて当然の行為だと思っている。
複雑な胸中に気付いているのかいないのか、ミュゼはただ微笑んでいた。その微笑みを浮かべる顔を前に向けると、もうアルカネットからは見えなくなる。
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