Op.1 『真実』を押し付けられた花弁

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 新暦776年 5月11日


 三番街のF地区の路地裏で殺人事件発生。被害者は中年らしき男。

 『らしき』といった理由については、首から上が切断された状態で発見されたためである。

 着衣を含む、身元証明になるものは皆無。胴体には目立った傷がないことから、物取りの犯行ではなく、はじめから殺害目的で凶行に及んだと考えられる。

 現在王立騎士は慎重に捜査を進めるとともに、自警団本部では遺留品などの調査や目撃証言などを集めている。

                               ――――O,Dennle




 この国の新聞に、殺人の報が載らぬ日はない。酒場のカウンターに広げられていた新聞に目を通していた銀色の人影は、それを流すように読むと興味を失ったように目を閉じた。

 この建物内のカウンターは素朴な濃い茶色の木造りだが、ところどころ何かしらの液体の染みがついている。だからと異臭がする訳ではない。窓を開けられて風通しの良くなった室内は、これといった香りがしない。

 カウンター奥は壁一面に各国の酒瓶とグラスが幾種類も並び、そこだけは立派な酒場の体裁を整えていた。夜とは違い、客が一人もいない静かな朝の店の中で、男は静寂を味わうかのように目を閉じる。

 やがてその人影に、一人の女が近付いた。まるで女中がするような恭しい仕草で、一人が業務終了を告げる。服装は汚れの目立たなさそうな濃い紫のワンピース、それに白の素朴なエプロンを纏っていた。


「マスター、掃除終わりました」


 客はいなくとも店員はいる。広い店内にいるのは数えて二人。銀色の人影は『マスター』と呼んで来た女の方に顔を向けた。

 マスターの服装は、体を締め付ける事がないゆったりとした白いシャツ、それとはまるで対照的な濃い灰色をした細身のズボンを穿いている。絹糸を思わせる銀色の、膝裏にまで届きそうな長い髪を持つ長身の男が目を開ける。


「そうか」

「……新聞、買ってきてたんですか?」


 マスターが新聞を見ていたことには、とうに気付いていた。今まであえて問い掛けなかったのは自分の業務を優先したからで。マスターがこんな簡単な質問なら答えてくれると知っていたからこそ、今存分に問うことができる。


「忘れ物だろう」


 新聞を見ることなく、それだけを返すマスター。忘れ物、と言われた新聞にさえ酒の染みが広がっていた。新聞紙独特の香りだけでなく、癖のある酒の刺激臭。声をかけた店員が近寄ってそれを手にし、広げた。マスターは店員を避けるかのように、数歩下がって別の作業をし始める。

 大して面白みのない三文記事の中、一番大きく取り上げられていたのも件の殺人事件だった。マスターと同じく、あまり興味がなさそうに頁を捲る。


「最近の中では一番猟奇的ですね……。首無しかぁ」


 記事を読み進める人影は、背中まである長い黒髪の女性。首の後ろでひとつに結んだ、艶のある髪だった。前髪の僅かな影に隠れた瞳は、黒掛かった紫。記事の文面を追うように、瞳だけはよく動いている。

 マスターは既に店員にも新聞にも興味を失っているので、その声にも答えない。積極性の見られない動きで、曇ったグラスを拭いている。


「……最近は色々と……解決してない事件も多いみたいですし。なにより三番街F地区って……殆ど二番街ですよね」


 黒髪の店員が他の記事にも目を通しながら呟いた。別の記事は特にこれといった内容でもなく、城下や国内外の事象が綴られている。当たりもしない天気予報の欄を見ると、暫くは晴れが続くらしい。

 女がそこを動かないと見ると、マスターと呼ばれた男は早々にグラス拭きさえ諦めて部屋に下がろうと足を進めた。


「後は任せる」


 暗く沈んだテノールが、女の耳に届いた。


「はい、マスター」


 これはいつもの事だったので気にしない女が返事をする。

 今日も変わらない一日が始まろうとしていた。




 自由国家アルセン王国、それがその国の名前だった。


 自由を謳うこの国は、現在も存在しているどの国よりも神話の存在が身近にある。


 何も無かったこの地に三人の神が降り立った。神はこの地に命を芽吹かせ、秩序をもたらし、人間が生きていく土台を作り上げた。世界に存在する全ての生き物はこの地より生まれたとされている。

 人間をつくり、人間に失望した神達が最初に作り上げた国。アルセンは、三人の神の中でも最後まで人間の『欲望』に望みを失わなかった神が築いたものとされている。

 神が創造し、神さえ見捨てた国、アルセン。

 神は自らの分身を王に据え、その血筋が王族として国を支えているとされる。

 国に住んでいる種族は人間を始め様々で、職業も魔術師や剣闘士、学者や騎士など挙げればキリが無い。種族や職業、そして善と悪も内包した『なんでもあり』な国。


 丘にそびえる城が見える城下五番街に、その酒場は立っている。

 J'A DORE―――大通りを外れた路地裏にある酒場。

 薄汚れた建物は木造で、三代目となるマスターが全てを取り仕切っていた。




「オーナー」


 外も明るく、酒場自体まだ準備中の札が掛けられている昼時間。夕刻に近い空は太陽をてっぺんから西へ押し流していた。カウンターの中で気怠そうに微睡むマスターの事を呼んだのは、黒い髪と黒い高衿の長袖、若干濃さが褪せた黒のズボンといった全身を黒で覆った男の姿だ。

 マスターの瞳がゆるゆると開く。そうして黒の男を捉えた灰色の瞳が、数度の瞬きを以て返事とした。


「今月分だ」


 紙封筒に無造作に突っ込まれた金貨を、カウンターの上に放り投げる男。それを受取ろうとしないマスター。紙袋はマスターの代わりに、バックヤードから二人の様子を窺っていた女の手によって回収された。その女の瞳は、朝方に店内の掃除をしていた者のそれとは違い、若草を思わせる緑色をしている。白と緑を基調とした踝丈のワンピースを着た外見も、まだ若い部類とはいえ紫の瞳の女よりも落ち着いた雰囲気を出している淑女といった姿だ。中身を確かめて、黒い男に頷いた。


「確かに受け取ったよ、アルカネット」


 アルカネットと呼ばれた黒い男は、その返事の代わりに溜息を漏らした。そして女がなにやら帳簿を出して、そこに書きつけていく。

 『アルカネット 五月分 受領済』それはこの国の文字ではない。

  酒場の二階は元々宿屋をしていた。それがいつの間にか部屋の半数以上が貸し部屋状態となっている。アルカネットはその下宿人だ。


「……今月の支払いは、随分早かったな」


 その声はマスターの口から出てきた言葉だ。その声にさえも何かしらの不快感を覚えた様子のアルカネットは、眉根を顰めながら返事をする。


「俺がいつ払おうと、別にいいだろ」

「……ああ」


 アルカネットは精悍、美丈夫、そういった類の言葉が似合う男らしい美形。

 対するマスターは美麗、繊細、それに類する誉め言葉が似合う中性的な美貌を持つ。

 目の前で金が動いているというのに、マスターの興味は何処にも無い。その姿に、アルカネットが何かを言いたそうにするがすぐに口を噤んだ。


「……少し、出て来る。今日中には戻る」


 その言葉にも、マスターは返事をしない。何の行動も示さない。ただ瞳を伏せて、腕を組んで、それだけ。知らないでもない仲に対してもあまりに淡白なマスターに、アルカネットが不快の表情を更に強めた。

 この男が、アルカネットは嫌いだった。先代マスターだった者のほうがまだマシだった。

 胸からこみ上げる苛立ちを誤魔化すように、激しい音を立てて外へ続く扉を開ける。

 閉まった扉の向こうで、アルカネットが舌打ちを一回。


「………クソが」


 そんなマスターの所から離れられない事情がある自分が、一番不甲斐ないとさえ思える。

 夕暮れに染まりつつある空の下、アルカネットが目的地を決めて歩き出した。本業にしている自警団の詰め所だ。

 本業に取り組んでいる間は気が楽になれた。人に迷惑をかける訳でもなく、逆に感謝され、自分の価値を他人から底上げされるような感覚。何にも興味を持たないマスターの顔を見ていると気が滅入って仕方ない。

 ―――違う。あんな彼でも、執着したものがひとつだけある。

 アルカネットがそれに思い至ると、忘れたい事を思い出さないように頭を振って歩を進めた。

 けれどどれだけ考えないようにしようと思っても、彼とは違う銀色の人影が、頭の中から追い出されることはなかった。

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