第2話 私の心の空洞に

「いつ死んじゃうかわからない人を一人には出来ない」


 あの後、そう言い放っためぐみの言葉を、私は否定する事が出来なかった。少なくとも、生きていく為に必要なエネルギーが、心の中に感じられなくなっていた事は確かだった。

 とはいえ、死ぬのが怖いのもまた事実で、その恐怖を超える程に自分が草臥くたびれて、絶望してしまっているのかどうかは、自分自身でも定かでない。


 結局の所、私は恵に押されるが儘に、彼女の家に移住する事を決めたのだった。




「うへぇー疲れたぁ」


 手足を投げ出して、絨毯じゅうたんの上に仰向けに寝転がる。元々私物は少ない方だし、引っ越しに際して不要そうな物は軒並み処分したけれど、それでも荷解きは楽ではなかった。

 恵は手伝うと言ってくれたけれど、一度甘え始めてしまえば、歯止めが効かなくなり、二度と自分の足では立ち上がれなくなるんじゃないか、そんな恐れで、彼女の好意を退けてしまった。


 大きく息をすれば、芳香剤だろう、春なのに金木犀の香りが仄かに感じられた。

 元は恵の母親の唯さんが好きな木で、秋に彼女の実家に行くと庭は勿論、家の中にまで花瓶で枝が飾られていた。洗脳、というと大袈裟だけれど、あの家で生まれ育った彼女は、一人暮らしを始めてからも、慣れ親しんだ匂いを好んで身に付けている。

 環境が人を作る、という事だろうか。

 そうであるなら、今の情けなさ過ぎる私は、果たして何が原因でこうなってしまったのか。或いは、こうやって何かの所為にしようとする事自体が、私の駄目さの由縁なのか。


もみじ


 隙あらばネガティブな思考を始めようとする私の意識を、恵の声が現実へと掬い上げる。


「お疲れ様。こっちの家に来るの初めてだっけ?」

「うん。でもまぁ、外で会ってばっかりだから、前住んでた所もそんな何回も行ってないけど」

「実家に居た頃はよく家で遊んでたのにね」


 遊びに行くと、いつも唯さんが出してくれた、甘い紅茶が懐かしい。


「唯さんにも随分会ってないなぁ」

「会いたがってたから、今度帰った時には遊びに来てあげてよ」

「うん、そうする」


 一人で住むには十分過ぎるが、二人で住むには少々手狭な感じも受ける1LDKのマンションが、恵の、そして今日からは私も共にする住まいだった。


「というか、私、本当に来ちゃってよかったの?正直邪魔じゃない?」


 そう言って上体を起こせば、2つ並んだお茶の入ったコップの片方を、恵がこちらへ向けて滑らして来る。


「はい」

「ん、ありがと」


 お礼を言って一口飲み込めば、続けて恵もコップを口元に運んだ。


「自分で呼んでおいて、邪魔って言い出したら、私やばくない?」

「ふふっ、それは確かに」


 真顔でそんな事を言われて、少し笑う。

 恵の言葉は尤もだけれど、あの時の彼女は多少なりとも感情的だった。ならば、後になってその判断を後悔する事位、あって然るべきだろう。

 私のそんな考えに応える様に、恵は口を開く。


「それに私は別に、椛の為に、椛をうちに呼んだんじゃないよ」

「……一緒にいた方が、余計な心配しなくて済むって話?」

「うん、まぁそれもなくはないけど」


 んー、と声を漏らして視線を上にし、人差し指で唇に触れる。考え事をする際、彼女がよく見せる仕草だ。


「椛さえ良ければ、前々から一緒に住みたいとは思ってたんだよね。

 てか、前に1回言った事あるでしょ?あんま乗り気じゃなさそうだったから、それっきりだったけど」

「そうだっけ?」


 多分、直ぐに流れた話なのだろう。いつの話なのか、覚えはなかったが、いつであれ、私が承諾しなかったであろう事は確かだ。

 今私がここに居るのは、無気力と諦観に依る部分が大きい。そうでなければ、例え恵相手であっても、一緒に暮らす等許容できることではなかった。


 人に弱みを見せたり頼ったりする事を嫌う臆病なプライドが、私を私たらしめてきた1つの柱が、大きく揺らいでいる。その自覚が、より一層私の心を不安定にさせていた。


「私はさ、ただ椛と一緒に居るのが好きなんだよね」


 何でもない事のように、恵はそう言う。事実、彼女にとってはそうなのだろう。

 好意を伝える事に抵抗が無いのも、やはり彼女の家庭環境が原因だろう。少なくとも彼女の母親はその辺り明け透けであったし、直接は面識の少ない父親も、一人娘を溺愛しているらしい事は知っていた。


 心配性で神経質な母の愛を疎んだ私と、両親の愛をあるがままに受け容れてきた恵。その違いだろうか。


「だからさ、色々理由は付けたし、それも嘘じゃないけど、でも、椛と一緒に居たいだけの、私の我儘に付き合わせちゃったってのも事実だから」


 そう言って、考えを整理しようと、それまで中空を彷徨わせていた視線を此方に向けて、彼女はどこか無邪気に微笑んで。


「私の為に此処に居てやってるんだって位、気楽に構えててよ。多分椛にはそれくらいで丁度良いと思うんだよね」


 その言葉には、私への理解と思いやりが詰まっている。


 何故こうも違うのか。あまりに自然体な彼女の在り方は、ともすれば妬み嫉み、或いは自虐の感情をもたらしかねないものだったけれど、今はそれよりも、駄目な自分に対しても変わらない、彼女の愛情に対して、感謝と安らぎを感じていた。

 どうやら私の性根も、未だそこまでは捻くれていない様で、その意味でも、少しだけ安堵する。


「ありがと、恵」

「お互い様ですよ」

「うーん、そうかな?」

「私がそうだって言ってるんだから、そうでしょ」

「そっか、そうかも」


 お互い様である筈がない。少なくとも、私にとっては。

 この僅かな負い目もまた、私の弱った心には少し辛い。けれど、今はこの優しさから逃げたくなかった。


「じゃあ、恵が泣いて、出て行って下さいって懇願するまで、居座ってあげる」

「安心して、お婆ちゃんになるまでそこでゴロゴロしてても、追い出したりしないから」

「いや、それは流石に追い出してよ」


 ふふっ、と可笑しそうに笑う恵を見て、私の顔も自然と綻ぶのを感じる。


 この子は、此処に居ていいと言ってくれているのだ。何も求められる事なく、ただそこに居るだけで良いと。

 勿論、それに甘え過ぎる訳にはいかない。けれど、少しだけ休んで、また立ち上がる為の力を溜めよう。恵の為にも。

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