第二章 樹の下の禁室

第1話 生まれ変わる自分

 休憩がてら外へ一歩進むが、すぐに部屋に戻った。ベランダのコンクリからうっすらと浮かぶ陽炎が、否応なく占拠する。お盆ど真ん中なのだ。

 昼夜問わず気温の下がらない熱地獄に、すぐそばにある街路樹たちが鳴らす抗議の葉音が、熱気の中から聞こえてきそうだ。喉はカラカラでペコペコ。食欲の秋待ち遠しい九月まで、まだ半月もある……まだ半月もあるのかよ。


「あっつ。ああ、もう無理。もう無理」

 一向に秋の到来を知らせない風物詩をわずかに感じ取ろうと腰を上げたが、限界だ。音を上げる男――日下部 竜一は、エアコンの効いた部屋に退避した。

 ひと仕事を終えた顔をして、ふーっと額の汗を手でぬぐって成果を見る。ようやくフローリング床がキレイに掃除できた。

 地面に散らばる落葉模様のように、安酒のアルミ缶はどこにも転がっていないし、隙間に潜り込んでしまったゴミもほこりも見た感じない。

 溝に零れた黒いシミは異常に厄介だったが、今日の頑張りで退散してくれた。これでこの家で暮らすことができる。早朝から奮闘した甲斐があったな。彼は腰を下ろし、猫の伸びのように床の上で長くなった。自分を誉め称えた雑巾を壁に打ち捨てて。



 府中から帰ってきて二週間が経過し、彼の心境と共に容姿は劇的なまでに変わっていった。髪をバッサリ切ったことでスイッチが切り替わったように、その日の夜に帰宅した直後、この家の有り様を自覚してしまった。

 ――何だこの臭い?!

 府中の城にて漂っていたものとは雲泥な臭気……。腐乱臭とツンとする刺激臭、その他もろもろの激臭が綯交ないまぜになった空気が、玄関先から漏れ出ていた。

 よくこんな臭いで苦情が出なかったな、と、猛省するほどの臭さ。こんなところで暮らしていれば、肌も髪も傷むに違いない。気分も塞いでしまうのは明瞭だった。

 その日から、家ではなく手ごろなホテルで素泊まりする非日常感が生まれ、ホテルと家とを往復することにした。

 ホテル初日の朝、自然と目が覚める。睡眠薬に頼っていても五年間効果なしだったものが、いとも簡単に手に入る快眠。やはり不眠は環境だったのだと改めて自戒し、劇的リフォームを敢行した。


「うわあぁ……。『森林区域』よりもひどい有り様だな」 

 決意から明けて初日。

 漏れ出る臭気に耐え、玄関ドアを開けるとさらに腐った臭いはマスクの繊維を貫通する。一歩踏み入れることを後悔させるほどの激臭。城内にあった内装を想起して、自然と比べる。呆れを通り越して来る失笑が、つい唇から漏れた。

 目の前に広がるさまは、砂浜に打ち上げられた漂流物の壁だ。玄関から廊下へ、廊下から奥まで床に敷き詰めたカン、ビン、ペットボトル……大部分は飲み干したものだと思いきや、手を取ってみると底にカビが生えていた。その上には当然とばかりにプラスチックの内包装やらギトギト油のカップ麺やら……

 滅多に換気してなかったため、すえた臭いが充満するのはいささか不思議でもない。このごみの草原はある意味、森林区域より見栄えがある。

 洗わずにロフトのベッドから投げ捨てて、それがここまで堆積していった結果だろうか――いや、違うな。靴箱を開くとぎっしり詰まった紙屑があった。こんなところ、いつ、だれが入れたのだろう?

 現況に嫌悪感を覚えるやすぐさま踏み越え、最奥の窓を開けた。この窓を開けたのはいつぶりだろうか、そう思いながら。


 そうして数日間にわたる生活必需品の発掘とそのゴミとの格闘。

 満杯になったゴミ袋を十個以上も生み出し、まだ床が見えない。森林区域よりましだが、未だゴミ屋敷の範疇はんちゅうを全く越えられていない。

 こりゃ一人では到底無理だな――彼は早々に見切りをつけてプロを呼ぶことにする。そんな決断ができるのも、『この金』があってこその決断だ。

 手ごろな家政婦を雇い、その日を境にみるみるきれいになっていく。

 初回限りのお試し価格、五万円に見合う掃除を見せてくれた。鬱屈した気持ちを晴らすように、たった一日で部屋から不快な空気はなくなっていた。

 普通の独り暮らしを取り戻すことに活力を注ぎ、頼みの綱だったカップ麺は隅に追いやられてこじんまりとしていることだろう。今や冷蔵庫内は上を下への大騒ぎで、毎晩自炊をしている始末。

 彼らの出番はきたる南海トラフの大地震までお預けか。


 山場を迎え、掃除の休憩と称して彼は一昨日発掘したばかりのテレビに手をつけた。スイッチを入れ、軽い動作確認を行ってから録画リストに飛ぶと過去の自分がザッピングしてきた数々が眠っている。一話だけ消化しておくか。彼の指はミステリードラマの第一話を選択した。タイトルは『真紅の結末』。決定ボタンを押す。

 テレビ用のリモコン――これは玄関先に埋まっていた――をテーブルに置き、茶菓子を用意して再生する。

 第一話は初回拡大版で二時間ほどあり、まずは人が射殺される場面から始まった。クローズアップした銃口から一発の弾丸が。

 発砲音と共に血飛沫が飛びだして、顔に傷をもつ青年の顔があおむけに倒れる。

「ふーん、よくある展開だなぁ」

 結局二時間経過して、ラストは真犯人が隠し持っていた銃の自殺で締めくくった。予想通り、よくある展開だった。

「所詮、過去の自分の選り好み、か……」

 感想を呟いた後の行動はさっぱりとしたもので、次々に録画したドラマを削除していった。十一時を少し回った頃合いになると、新品に生まれ変わったスマホから軽快な音が鳴る。テレビをミュートにして、目線を移動させる。


「スマホ替えたのぉ~? (´Д⊂ヽ」


 顔文字が上に引っ込んだ。引きずりおろすと名前欄に「町田日向」とある。

 朝、一斉送信で新しい連絡先を送ったのだが、即日返ってきたのは一人だけらしい。他は忙しいか、それとも自然消滅されているのか……どちらにせよどうでもいい。適当な顔文字――無論、最新機種よ(*´ω`*)――をプレゼントして竜一は立ちあがった。今日もまた、で昼飯を取ろうと思い至ったのだ。

 シャワーを浴びて軽く汗を流してから別の夏服に着替える。白色のシャツから水色のカジュアルシャツに着替え、下は落ち着いた茶色のショートパンツにする。ノートパソコン用の手提げケースを持って玄関を施錠し、サンダルに足を入れる。非常階段を降りた。

 車のキーを指先でもてあそんでいると、ゴミ集積場付近で人影を見かけた。両手にゴミ袋を持ったまま立ち往生するアパートの住民――燃えるごみは朝収集されるのに、今頃か?――を一目見てから、地下駐車場に向かった。


 指定の番号に止まる、赤のプレマシーに乗り込んで、ミラーの角度を調整した。

 短く切り揃えた髪と彼の肌、そしてゆったりと着る服。汚れたところは何もなく、むしろ清潔感に満ちている。

 キーを差し込んで車を出す。駐車場から地上へ出るための上り坂をのぼった先、確認用のミラーが運転手の顔を一瞥してきた。

 映った顔は青年を思わせるほどに透き通っていて、露出した肌は全く荒れてない。強い夏の光で輝く光を強烈にはじき返すかのように、彼の地肌は回復していたのだ。

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