インタールード 地下室にて
その夜、府中の空は分厚い曇天の雲行きで、微かに月が覗かせるほどの暗さだった。赤いランプがせわしなく回って、教官を呼びつける。夜中だというのに、府中少年院は暴動の抑え込みに躍起になっているのだ。
警報機が鳴り響く中、その隙をついて首謀者が黒闇の塀を掴んだ。入所前とは全く異なる精悍な顔つき。入所前は剃り込みが入っていてヤクザめいていた顔も、今では模範生然とした丸刈り頭となっている。
「あばよ、ゴミども。感謝くらいはしといてやるぜ」
彼はよじ登る壁の上から下へ、
すべてはこの日のためだった。
すべてを真剣に取り組み、息をひそめ、警備員の警戒網から認知しない人間になるために、今まで演技してきた。それが今夜、花開いた。その
ここでの生活は厳粛そのもの。
起床や就寝、食事に至るまで時間に縛られて身動きが取れない。教官は反抗期真っ只中の院生に目を光らせ、更生させるという名の暇つぶしのために一役買って出ている。逃亡の機会を生真面目に潰しているというのだ。
また、院生は院生で入所が早いものほど上位の権力者となっていく。それらがヒエラルキー化して複雑になり、下々を支配する。それがこの少年院の実態だった。
そのことに気付いた瞬間、すべてがうざったくなったが、いざ行動してみれば存外楽な仕事だ。
自由を手に入れるための根回し、教官への賄賂、模範生へ悪の洗脳……すべてを滞りなく済ませ、自身は仮面を被って生活する。あとの面倒ごとは、モブがぜんぶ
男の、憧れの存在から譲り受けた魔性のカリスマ性をもってすれば、それらは予定調和の出来事。当初の予定では半年で済むところを、入所からわずか一か月程度で外国の不法地帯並みの暴動を起こせた。朝飯前だった。
今の府中少年院は混迷を極めている。収容されているすべての少年らは男の洗脳で一致団結し、鬼教官らを抑え込んでいるはずだ――俺の脱出のための、盛大な〝囮〟として。
壁の頂上にまたがり、久しぶりの夜空をみる。都会故に空は薄汚れて星は見当たらないものの、ちょうどよく雲間に現れた綺麗な月が照らされ映えて、幅わずか三十センチにも満たない
脱獄犯は光に従い、踏み外すことのない風になった。瞬く間に月の目に及ばない影まで走った。監視カメラの隙をついて、逃走経路を滞りなく進め、やがて敷地内の植物の影に隠れた。
目の前は少年院来客用の駐車場が陣取り、出口付近には駐車券発行などの無人システムがあるだろう赤白のバーが二本ある。その先の正門には数人の警備員が
暫く待っていると彼の予想通り、変事が起こった。徐々に喧騒が大きくなりつつある院内の様相を知らない警備員は、やっと腰から無線を取り出し、どこかと連絡を取っているようだ。しばらくして二人の警備員は建物に走っていく。
勝者の笑みを浮かべ、忍者のような呼吸で門を出て夜道に紛れた。
少年院から走って一時間。大胆不敵にも、隠れ蓑に選んだ場所は男の自宅だった。建物の影で、肩で息をするように止まる。右手は柵を掴み、左手は左膝に手をついて、荒ぶる呼吸を整えた。
人気のない通りを確認して、見上げた。
「――美しい」
素直な感嘆。
月見には最適な月の光量を浴びて、薄い青の外装は、府中の城ともいえる〝最高傑作〟へと変貌していた。
この邸宅は、男の住処なのだ。この時だけ、彼の
ここを潜伏先として選んだ理由は三つある。一つは、府中少年院から近すぎること。この城は、男が住んでいた邸宅としてあまりに有名だったこと。この二つの理由より、逆に潜伏候補として除外されると踏んだ。
頭のキレる首謀者が、こんなところに隠れるわけがない! ――という、大人の凝り固まった固定観念の、その裏を突いた妙案。そう自負するほどに。
しかも、元居住者である男にしか知らない『地下室』が存在する。どこかに潜む秘密の入り口を使わなければわからない、防空壕のような地下室。もとは別の理由で増築したのだが、備蓄もあるし一か月くらいなら安心だろう。ほとぼりが冷めるるまで、この下で『越夏』してやる。
男は居住地を取り囲む柵をよじ登り、音もなく中へ。
腹ばいになって裏庭へ進んだ。立って進むと赤外線センサーが感知する可能性がある。ある程度の高さに達するとサイレンがなってしまい、警察へ一報されてしまう。まだ生きているかもしれない監視システムが鳴るとかなり厄介になる。
ただでさえ薄くてダサい青の院生服が擦れて破けていく。
身体に侵入してくる冷たい泥が夜風に煽られて体温を奪う。防犯システムに余念なく組んでしまった自分に血反吐を吐きたくなる。だが、天は彼を見放さなかったようだ。
月夜に薄暗い雲が邪魔する頃合いになって、そこから雨が降ってきた。間断なく降り
丁度良い。いい目くらましになるし、ここまで強烈であればサイレン音もかき消してくれる。一石二鳥だ。
好機を逃さぬよう、彼は湖に架けられた石橋を渡って走っていく。唸り声をあげて雷鳴も一発轟いた。府中近辺に落ちたらしい。泥水になって滴り落ちていく地面に両足を叩きつけて急いだ。
目指すは若ケヤキの、幹の根本だ。風で樹幹と枝葉が、ざあぁー、ざあぁー、と悲鳴を上げるケヤキまで来ることが出来た。幹の裏側に赴き、みた。これ見よがしに置いてある、地面に刺さったスコップを手にした。
すぐさま根を張る地面に突き刺して、穴を掘った。三十センチ、五十センチ、と。一心不乱に。一メートル、二メートル、と、遮二無二に。
がこん、とスコップの先に何かが当たる音がして、放り出して両手でかき分ける。雨水マンホールの蓋に擬態した地下室への入り口に到達した音だと確信した。
円形のそれに触れ、少しだけ開ける。筒状に落ちる、暗いコンクリートの穴にコの字型に付いた金属製の梯子。三段目までしか明瞭に見えない。男は闇の梯子に足を乗っけた。
下へ降りて行って地下室に足を踏みしめ、梯子を降りきった。手探りで照明のスイッチを入れる。
ちかちか、とか弱い照明で、地下室が蘇った。内装と装飾が目に入る……そうだ、ここは『
埃をかぶった赤ワインたちは全部で九本。
もっとあったような気がするが、どれも彼の生まれた年代が刻まれているのですべて購入したものだ。少しくらいならここで飲んでもいいだろう、俺のものなのだから。確か、この辺りにワイングラスが――と、周囲をまさぐり始めた。
グラスに注いで独酌すると、目には懐かしさが込み上げてきた。
どうしてこの家を城として変貌させたのか?――決まっていた。動画のためだ。
来るべき時にここで撮影をして、動画をあげる……そのために、秘密の地下屋敷をリフォームした。この上も、一階も、二階も、すべての階層をリフォームしたのも、起死回生のための布石――それが、誰かの手によって砂上楼閣となった。
彼は目を伏せてワインを味わった。口に含み、未成年の舌に濃厚なぶどう酒が触れて身に
視界で
そうだ。過去に戻るのだ。
夢実現のために、自由を手に入れるために、人生を謳歌するために。
そして、資本主義に則って、大金を手に入れるために……。そうだ。もう一度、ここに戻――
「この世から消える前に、あなたの遺言――聞きましょう」
彼の至高なる思考を邪魔する音がした。後頭部。
ぐるりと振り返った。誰もいない。……気のせい、か?
そりゃそうか。考えてみてもこの場所を知る者はごく限られている。知っている人は自分と……『この城の建造者』位。それか――
カチャリ……。
振り向こうとする動作は随分と
直後、侵入者を罰する引き金が引かれた。
雄々しき金属の先端から火を噴いて、尾を引き、尾を引き、地下室に響き渡った。頭一つ分の赤い飛沫が宙で花開く。
額から上を大きく穿って、机に倒れ伏す絶命した男の身体。両眼の焦点は虚空を突き、その視界の端に写るは人型の赤い布。
「――聞きました。わが子を奪った、加害者の息吹を」
銃声が染みこむ地下室に静寂を取り戻した直後、銃を掴んだ紅い布が言った。
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