第9話 努力する機会
ひびの入った液晶を指でノックすると、今日が梅雨明けだ告げるニュースが目に飛び込んできた。そろそろ夏か、と視線を走らせる。
未だ夕陽が元気を出し切っているからか、一向に夜のとばりが広がらない。その下で彼は佇んで、改札から帰宅ラッシュの一部を吐き出していく様を見届けていた。
改札奥の電光掲示板を見るに、「午後六時十五分、武蔵中原行」という文字列が流れている。六時十五分、ということは……
目を閉じてみると、なぜか瞼の裏にある情景が映っていた。
今の夕陽をバックに、昨日見たあのホームページを彷彿とさせる黒いシルエットが電車に乗っている。
場面が差し替えられるように一瞬暗転し、駅の改札らしい黒い物体から降りたシルエット。なるほど、あれは自分の姿か。今日一日の記憶を、あのシルエットはなぞってくれるらしい。
シルエットは自身が持つスマホを頼りに歩を進める。ゆっくり、ゆっくりと。俯瞰してみれば一目瞭然なほど、怯えていることがよく解る。
たしかに競馬場を並走するのかと思いきや、汚い路地を行けとスマホの地図に指示しされたのだ。あの時は引き返そうか真剣に思案したものだ。
立ち止まったのち、意を決して昭和の色が褪せない住宅地を潜る。背景がどんでん返って住宅地から荘厳とした城に変化した。目的地が城だったことが判って圧倒されるシルエット……思わずのけぞるように首を上向きにした。
驚愕の逃げをしたくなったが、意を決して敷地内に入った。インターホンを押す勇気が出ず、流麗な庭で彼女――「みどりさん」に見つかったこと。彼女もまたシルエットになっている。ホームページの生き写しのように、ほんのり赤かった。
凝った内装に驚く黒と、ほほ笑むように見つめる赤。トンネルを模した廊下と枯れ葉を模した紙屑に辟易しながら、やがて進む二人は装飾品が置かれた部屋に導かれるのだ。
その部屋では、壁から横に積まれた写真の山が怪しげに光る。
自己紹介として自身のトラウマを語るシルエットが、泣きだした自分に対してハンカチを渡す。そして、そして、と順調に回想が進んだ。が――、竜一はある不自然な情景に気付いた。
それは彼女とともに外に出て、ハンバーグを食べに行く時だった。彼女が黒い門扉を閉じている間に立哨していた木鉢で隠蔽されたものがあった。
外壁は薄だいだいと薄い青のパステルカラーで明るげなのに、その部分だけぼかした灰色が乗った色合い……若干
「これは何ですか?」
黒のシルエットがその黒い部分を指して問う。
「それは放火の後ですよ」
「放火……?」
「はい。先ほどお話ししたとおり、この城は成功者の家……ネットの大成者が住んでいたところです。ですから、よからぬことを考えた方々が、仕掛けたらしいんです。だから……ほら」
紅いシルエットが閉めかけていた門扉を見やった。外側には紙が貼り付けられていた。警告文だった。
クリアファイルで守られてはいたものの、雨風で四隅のテープは縮んで文字はしわしわになっている。辛うじて読める。
『この地域は〝治外隔離区域〟。関係者以外は立ち入りを禁ず。もし入り込んだ場合、然るべき対処をとるだろう』
「〝治外隔離区域〟……あ」
警告文のなかで赤く彩られた〝治外隔離区域〟の文字に、黒は自分の行いに恥じて身体をすぼめた。
「すみません。勝手に入ってしまって」
「ふふふ、たしかに。ですが、まあ、大目にみてあげます。幸い日下部さんはよからぬ人ではありませんでしたし。それに、そちらも、私がこちらに来る前につけられた跡ですから。そんなことより……行きませんか?」
そのまま、彼女のエスコートで喫茶店に向かうのだが、時間が経過しても気がかりだ。そういえば彼女は、
「この家はまるごと治外隔離区域ですよ」と言っていた。ホームページにもその文言があった。
放火被害と治外隔離区域。治外隔離区域、治外隔離区域……。頭の中を隅々まで手繰っても、なかなかヒットしない。何なんだ? これは?
……いや、知識のアップデートをしていないし、考えていても仕方ないか。
調べよう。その前に……自分自身を変えてからだ。そのために、何ができるか考えよう。
まずは見た目だ。あと一か月もしない間に夏真っ盛りになる。その前に、伸ばしに伸ばしたこの
次に家のなか。自分のすさんだ見た目を写し取ったような部屋を丹念に掃除して、綺麗にしてやろう。ついでに長年くたびれた下着も、穴の開いた靴下も、ひびの入った携帯も、すべて買い替えてやろう。クローゼットにあるものも、靴棚に眠っているものも、カビが生えていそうな布団もすべて捨ててやる。
これらをすべてこなしてから……改めて就活だ。履歴書やカバン、スーツを買って、町に繰り出してやるのだ。やる気のでない日々はもうこりごりだ。
それに、このまま貯蓄を食いつぶすわけにはいかない。
彼女に会ったのだから、この恩に報いたい。今の自分はあまりにもみっともない。だから……と、竜一はここまで濃密な時間を過ごせたことに感謝しながら追憶の目を開けた。
右ポケットに手を入れた。取り出したそれは安物の革財布だ。外皮は剥げて中の合成樹脂が見えてしまっている。けれども凝視した。
たしかに見た目はぼろぼろで、頼りない財布だった。行きの交通費くらいしか入ってなく、今晩帰れるかどうかすら怪しかった。
金が心もとなかったのもあるが、別に帰りの交通費がないわけではない。彼はわざとそうしたのだ。そうでもしなければ、また悪の鎖に蹂躙される。日常から光明が射したチャンスを、また逃すかもしれなかった。そんな自分を、試したくなった。
結果、それは……ぼろぼろの皮財布は、生まれ変わっていた。行きには無かった厚みのある財布になっているのだ。中を開いて札束入れの部分をのぞくと、爪先ほどの束になった一万円札が入っている。援助金として彼女から頂いたものである。
前は努力する機会も与えてくれなかったが、今回は違う。
再びクロスする音が高架橋から降り注いだ。
電車が去る音と、やる気に満ちた電車が滑り込んできた音。規則正しい生活を手に入れれば、自分は輝かしい前途に立ちかえることができる。
それら日常の象徴音をひと
決意の足を何度も動かして、赤青白のサインポールとすれ違い、自動ドアを潜る。
直前、ガラスに反射した、みっともない姿をひと睨み。瓜二つの頭身の、一方の目に灯る光はこう言った。
戻ろう、今度こそ日常に。
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