第8話 理不尽な呪縛

「ひどい、内容です」

 いつの間にか、そんな言葉が口から出てきた。

「酒に酔っていたからといって、こんなこと……人がやっていいことじゃない」

 こんなこと、こんなのは事故じゃない。これは――と、竜一が言おうとすると、


「――理不尽」

 全く同じ三字熟語を、みどりがいった。

 それはとても凍っていて、殺人を志した者を思わせる恩讐の念に満ち満ちていた。江戸時代にタイムスリップした空気を軽くつんざき、猫又のテーブルクロスの上空を一発の弾丸として飛来する。掠め、思わずぶるりと頬がふるえた。

 けれども、その冷徹な声色は一瞬だけ。赤いリップがゆったりと曲げられた。


「理不尽。ええ、〝理不尽〟。そうです。

 理不尽で残酷な体験は、一生のうちにどれだけの人が遭遇するのでしょう。地震、津波、火事、洪水。ウイルス疾患、ガン……挙げれば切りがありませんが、自然災害によるものならばいくらか諦めがつきます。運だった、こういう運命だった、と」

 竜一は黙って聞いた。

「ですが、人災は、それも回避できたかもしれない人災は計り知れないものです。今までの体験、思い出が一夜のうちに亡くなる感覚……積み重ねてきた物がすべてなかったことにされる」

 自然と彼女の目線は、ぐるりと見回した。部屋を囲む、思い出の品々たちへ。

「六年経った今でも、ふと頭をよぎることがあります。ここにある、私と息子の思い出……果たしてこれらは本当にあったものなのでしょうか。

 私と、二人きりで、福島に旅行しに行って、本当に赤ベコを買ったのでしょうか。星がよく見えると噂を耳にして、長野県に行って、本当に天体観測をしたのでしょうか」


 その後も部屋の装飾物を指呼歓呼していった。赤ベコ、鳴子漆器、南部鉄器、江戸切子。部屋の首領を装う信楽焼たぬきにも同様の旨をいった。

 この部屋は、『日本』という名の、二人の思い出を残しているのだ――写真の山を中心に置いて。


「私の記憶とこれらの写真思い出、どちらが本物なのか。はたまた事故の影響で逃避した脳内が、記憶を都合よく補完したものなのか……。

 私はその後も改ざんされた過去に苛まれ、少しずつ拷問用のくさびを押し込まれていくように、それはまとわりつく。私にも、その一因があるのでは、という鎖に絡めとられて、今日までのうのうと生きているのです。

 ……ふふ、ずいぶんありきたりな想起ですね。所詮、大衆に見せるニュースに取り沙汰される遺族というのは、悲劇のヒロインに見立てて喧伝されるものです。週刊誌も、メディアも、同じように帰結していくのでしょう。年一回は、報道してくださるのは感謝すべきなのかしら」

 自嘲し、肩を落とす彼女。

 そんなに卑下することはないのに。

「ですから、日下部さん」


 みどりは手を差し伸ばす。手には黄色のハンカチが握られていた。「泣かなくていいんです。私のことで」

 なぜハンカチを?――と思っていた矢先、テーブルの上を飛んで、竜一の頬を優しく拭った。自分の目から、ひと筋の涙が滑り落ちていたことに、初めて解ったのだ。そう理解した瞬間、瞼の裏がとめどなくあふれていく。

「日下部さん。日下部さんも、この理不尽に圧搾されてこの場に来られたのでしょう。話してくれませんか、あなたに舞い降りた理不尽を。あなたを蝕む悪夢を」

「でも――」

「安心してください。私は、ちゃんと聞きますから」


 正直、話したくなかった。

 ここに来た理由は、あのメールを見たからであって、真剣に相談するために来たわけじゃない。迷惑メールとして興味本位で開いて、意匠の凝ったアニメーションを見て、何かしらのメッセージを送って、すぐに返ってきて、じゃあ行ってやろうかという気分にさせられた。だからここに足を運んだ――という、軽い理由でしかない。

 それに、自分の持つ理不尽は、あなたのような〝理不尽〟じゃない。あのときの自分が悪かっただけなのだ。それは頭の中ではとっくに解っている。我慢できる理不尽だった。

 あなたとは全くの別物で、雲泥ほどの差がある。とても話せない。


 けれども口から洩れだす悪夢の煙は、吐息となって下に落ちた。

 すーはー、すーはー、と二・三度深呼吸したのちに、言語化を試みた。

 話す内容はもちろん、自分を苦しめる呪縛。

 毎晩毎夜、今朝まで続く、ビニールハウスでの悪夢――我ながらしょっぱい内容だ――を垂れ流そうとした。



 ――こんな基礎も基礎もできないなんてね。君、大学で何習ってきたの?



「うっ」

 今朝にも感じた、金属棒で殴られたような、脳汁を絞り出そうとする激しい頭痛で頭を抱えた。トラウマに触れたせいで、口は閉ざされる。

 悲運に打ちひしがれる彼女と比べて中身のないものなのだが、とても不甲斐ない。

 どうしてだろう? どうしてこれが、途切れることのない幻として、夜の王として、頭の中で君臨し続けるのか。

 どうしてだろう? 話していけば、過去の連鎖を断ち切ることが出来るだろうに、それすらできないなんて。どうして口が動かない?

 それは明々と濃く浮き出してきて、荒んだ内面をさらけ出す自分の情けない姿に、離脱してまで痛烈な唾棄だきを浴びせたくなった。


 おびえ切った眼差しで、彼は正面をちらりとみた。軽蔑しただろうと思い込んでのことだ。しかし、彼の予想をはるかに裏切った表情があった。

 彼女は真剣な眼差しで、こちらを見つめ返していたのだから。



 日が暮れようとする駅のロータリー。かたんかたん、と連続した走行音が、上の高架線より降り注いでくる。オレンジと黄色の電車がクロスして、入線と発車のメロディーを奏でているのだろう、武蔵野線と南武線の終着駅なのだから。


「本当に……今日はありがとうございました」

「ふふふ、何てことないですよ。相談員として当然のことですから」

「そうはいっても……」

 竜一は何度も頭を下げていたが、面をあげ、ちらりと見てやめた。困った顔があったからだ。

「あ、すみません。こんな格好で」

「何のことです?」

 おどけたように聞き返された。彼女は全く気にしていない様子を見て、自分はすぐにでも改札を潜って電車にのって、この場から消え去りたかった。

 府中本町駅のロータリー前で、ひときわ二人は目立っていた。

 改札から出てきた人ごみでいくらかまぎれてはいるのだが、一人は浮浪者のような格好で、もう一人は全身を赤のドレスアップに身を包む美しい女性。

 通行人が好奇な邪推でもってじろじろと観察しながら、平然を装い通過しているが、盗み見ていることは百も承知だ。まるで美女と野獣、いや、美女とホームレスか。

 すぐにでも別れ、南武線に逃げ込みたい。しかし、そうはさせまいと自分の良心が思いとどまった。これだけは言っておかないと。

「あの……ハンバーグ、美味しかったです。ありがとうございました。ここ十年で、一番生きていて良かった、そう思えた味でした」


 相談しに行ったのに、結局過去の呪縛に囚われ、二の句が継げなくなった。そんな彼を見かねて、みどりが食事を誘ったのだった。城から十分ほど歩いたところにある喫茶店に入って。

 古色蒼然とした外装とは打って変わって、内装はこぎれいな個人経営然としたもの。昭和の雰囲気を醸し出すダンディーなマスターが奥から出てきて挨拶してきた。

 いらっしゃいませ、と物腰柔らかに、灰色の口髭を揺り動かして、窓際の席に案内した。みどりはこの店の常連のようだ。

 開店以来、マスターが独りで切り盛りする――そういえば彼女もそうだっけ――老舗店だそうで、三日にあげず通い詰めるほどだという。


「そろそろ来ると思っていましたよ。二人分を、いつもの、ですね?」

「ええ、代金はいつも通り。ふふふ、さあ、日下部さん。少々お待ちくださいね」

 

 お通し代わりの挽きたてコーヒーが置かれ、二・三度会話を交わして戻っていく。それを味わっていると、充満するようにいい匂いがしてきた。ずいぶんと早い。肉の焼ける音をあげて、鉄板プレートに載せられた料理が二つ、運ばれた。

「さあ、食べてください」

 マスターが後乗せしてから、みどりが声をかけた。実物は見たことはないが、今ふりかけたものが黒トリュフだと軽く推量できたからだ。

「遠慮なくどうぞ。代金は持ちますので」

 躊躇っていたが、彼女の笑顔に配慮して戦々恐々とナイフとフォークを握る。切れ込みを入れた。

 中から滴る肉汁と、肉が焼ける音。ひと口運んだ。旨い。奥歯に触れる前にほろりと崩れさる。ふた口と運ばれて、間をおかず唾液と交わって伝播するこの言いようもない旨みは、今までで数えきれないほど食べた料理の中で、群を抜くほどにおいしいと思えたハンバーグだった。

 あの味と音、感覚そして時間。この先十年、二十年経とうとも、忘れることはできないだろう。


「でも、いいんですか? ここまでしてくださって」

 相談料も、交通費も、さらにはハンバーグまで……。ぼろぼろの財布が眠る、ポケットのわずかな膨らみを擦りながら、申し訳なさそうな目線を送った。

「はい、冒頭に話しました通り、無料です。趣味ですから」

 そう言い残して、彼女は離れていく。

「では、また会うことを楽しみに待っていますね」

「――あの!」

 竜一の声で彼女は立ち止まった。

すめらぎさん。今日は、本当に……ありがとうございました。あのメールが送られてこなければ、僕は……」

 二人の距離はものの三メートルもない。何のためらいもなく数人が隙間を通っていき、一瞥を置いていく。彼女は振り返った。そして、

「何もしてませんよ、私は。ただ、聞いていただけですから。あと、次からは『みどりさん』でいいですよ? 相談者はみな、そう言いますから」

 と言い残し、歩みを再開した。かつかつとヒールの音を立てながら、夕陽の雑踏に紛れていく。

  紅いスリットドレスの間からちらりと覗かせる四肢は、もう過去の惨事を乗り越えて今の日常に戻りつつあるな足取りだった。夕陽のか弱い逆光に照らされて、紅いドレスは一層光り輝いていた。

 その姿を見て、彼は来週も来ようと決心した。今度こそ競馬場方面へと小さくなっていく。


 最後まで親切だった。彼女の親切心に、心が安閑となっていく。

 高架橋の下でひとり、電車音を聴き流しながら、竜一は意味もなく立つ。

 対人で、この気持ちに満たされたのはいつぶりだろうか?――そう思いながら。

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