第3話 差出人のもとへ

 翌日の昼。ニートの起床時間としては早めに起きた。

 シャワーを浴びて、一張羅である鈍色のフリースコートを肩に引っ掛け、正午のホームから黄色とオレンジ色に塗装された電車に足をかける。


 小一時間平日の南部線に揺られ、多摩川を渡って東京都に入った。府中市は東京都のほぼ中央にあり、二十三区の郊外にあたる。神奈川県との県境を流れる多摩川を渡ってすぐだ。

 車窓からは閑静な住宅地が広がっていた。所々に緑地化した公園が幾つかあったので、比較的に長閑のどかなところなのだろう。

 初夏の風を受けてざぁざぁと車体をこする乱雑な音と、穏やかに葉音を揺する自然音。それらに合わさるようにうなるエンジン音の三重奏トリオに、竜一だけは心休まるひと時を過ごした。彼は農学部出身である。


 川を渡って数分、目的駅である府中本町駅に着いた。竜一は改札をくぐりぬけ、東ロータリーをまわった。県道九号を右に曲がって左に進む。

 競馬場通りという名の通り、右手には直線距離五百二十五メートル、一周距離では二キロにも及ぶ東京競馬場――今日は平日なので休みだった――がこちらを睥睨へいげいしてきた。


 幸い、彼が怖気づいてしまう前に道は左に大きくカーブして離れる――が、すぐに立ち止まる。スマホでは左手に伸びる細い路地を通れというのだ。

 ノラ猫でも忌避してしまいそうなほど陰湿な影。日差しはほとんどない。こんなところを通るのか?――と不安げに路地と画面を往復する竜一だったが、頼りの矢印は変わらない。合っているぞ、と逆に頷かれた。

 こんなところで止まっても意味はなさそうだ。人気のまったくない、舗装もままならない路地を進む。すれ違うのもやっとというような幅から徐々に下り坂となり、段々畑のような大きな階段になった。

 都会特有の走行音や生活音が恐ろしくなるほど消失していき、辺りは静黙せいもくとなっていく。階段を下れば下るほど、高度経済成長期前のような昭和の臭いが彼の隣をすれ違って登っていく。


 この辺りだけ都市開発から取り残されたのだろう。

 数年前に令和へ改元されたというのに、未だ彼の四囲しいは木造アパートやモルタル塗りの家屋が所狭しと敷き詰められていた。『汗牛充棟かんぎゅうじゅうとう』という四字熟語をじかに見ているようだ。

 相棒によると、あと三分ほどで着くらしい。もしかして目的地も……と想像した直後、彼の予想は完全に裏切られた。

 昭和の雑木家をかき分けると、拓けた場所に出て、奥に令和の新築を発見した。新築、という言い方は誤謬を招く表現だろう。あれは『城』だ。しかも、昭和アニメに出てくる長屋が二つ以上収まるくらいの、広大な土地を両手に抱えている。

 近づけば近づくほど、これが件の目的地だと理解する。目が眩むほどの、ふんだんに使われた金の匂い。


 校舎を改築した、ヨーロッパ建築の城。塔のような建物も、その一部に含まれているらしい。

 一区画をまるまる占拠したテロ組織のように、周辺を真新しいブロック塀とフェンスで覆った敷地に近づけば近づくほどひと際新しく、そして嫉妬を通り越すほどの金の匂いが強くなってきた。

 行き当たりを左に折れた。新築を並走して追従する横のブロック壁は、クリヤー塗装をしているのだろうか。夏になりゆく陽の光をたちどころに跳ね返し、地面を淡い水色に染めあげていた。

 影の先端が鋭利な爪を思わせるのは、柵の上部に忍び返しが付けられているからだろう。監視カメラも複数あって防犯対策には余念がない。

 彼は怖気づきながら中の様子を窺った。進行方向右手奥には立派な門構えが、その隣にはガレージが設けられている。



 相棒に映る所要時間がゼロになったと同時に、正門に到着した。

 その間、じろりと路傍ろぼうの彼を睨みつけてくる富豪の屋敷。無人のようだが、監視されているようで気味が悪い。

 が、外観は裏腹に見栄えが良い。ペールオレンジと薄い青のパステルカラーは規模スケールを考慮しなければ可愛らしい家を彷彿とさせる。絵本に出てきそうだ。

 門扉奥の、飛び石チックな化粧レンガでぴょこぴょこと玄関まで導いてくれ、やや蛇行気味なのも風情があった。

 玄関まで続く飛び石の両脇には、背の高い観葉植物が立哨りっしょうしてくれている。まるで富豪に遣わす使用人が客人を出迎えてくれるまで外で待っていたかのよう……


 城だ。城だったのだ。あのメールは招待状だったのだ。富豪が所有する城への……竜一の心は圧倒されるしかない。

 アーチ状に象る黒い柵状の門扉もんぴは不用心に開いていて、罠のように映った。恐る恐るといった風で一歩、足を踏み入れる。

 たちまちサイレンが鳴って、彼を不審者だと警告。常駐警備員がすぐさま来て連行する、というような危険な雰囲気はない。何も言われなかった。

 けれども、数年間引きこもっていた弊害がここにきてぶり返してしまった。


 まだ、人とは会いたくない。

 ここまで絢爛豪華だとは想定外だ。思い立ったが吉日――という気持ちはあっても、見知らぬ人と会う勇気までは持ち合わせていない。ましてやこんな城に住む主と面会するなんて。それに……

 歩みを止めた彼の足は、三個目の飛び石で踏みとどまり、左足は観葉植物の陰に隠れた小径に向けた。香花の香りに誘われるように、身体の方向を変える。



 入り口から左手へ進み、角を曲がるとそこには立派な庭園が設けられていた。

 イギリス庭園と日本庭園を混在させたもので、ちょっとした湖の上にかる石橋が丁度良い。奥には城の延長線上の、校舎で言うところの渡り廊下が横に伸びている。湖に注ぎ込む小川を渡った先には、巨大な樹が鎮座していた。

 湖に続く小径の両脇には花壇があって、ひざ下まで背を伸ばした草花が植え付けられている。花はない――が、手入れはしてある。化粧レンガで仕切られた花壇の縁にも、雑草は見たところない。


 奥に控えるは綺麗に切り揃えられてどっしりと腰を据えた剪定樹だ。

 かすかな風でも自身の葉を揺らし、ざあぁー、ざあぁー、と緑の葉擦れ音を響かせる。その声はとても威勢良く聴こえた。

 樹木の表面こそ彼の位置からでは見えないが、凡そ樹齢は三十年程度の若ケヤキ。ああ、心が穏やかになっていく……。


「どうです? 美しい庭でしょう?」

「――うわっ」


 突然後ろから呼びかけられ、竜一は身体を揺り動かされた。地に根を生やしたように足が動かず、たじろぐしかない。どうしよう……これは、間違いなく敷地内の人物。そして今の僕は不法侵入者のような格好でいる。捕まえようとしたのだろうか?

 それにしては、落ち着いた女性的な声だったが。


「この庭は、わたくしの自慢の庭です。夏になればクチナシや百日紅サルスベリ、大輪を咲かせようと奮闘中のひまわりなどが。秋、そして冬ごろになればブルーベリーが収穫できます。それも、大量に」

 恐る恐る、振り返った。視界の切れ端に写ったのは、ヒガンバナと間違うほどに赤い布だった。女はしゃがみ込んだ姿勢から花壇から一輪の花を摘み、くるくると回す。


「お待ちしておりました。日下部 竜一さん」

 立って一礼。赤いドレスの腰をゆったりあげて、顔がほころぶ。

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