第一章 紅いドレスを纏った淑女

第1話 悩める人

 生育適温27℃に設定されたビニールハウス。

 その中に入っていく集団が一歩足を踏み入れた瞬間、熱を持った空気が作業服を貫通した。農場があるここ栃木に未だ春の陽気は来ず、霊峰・男体なんたい山より冷たい風が吹きおろしてきて彼らを鳥肌にさせていく。その上を、熱風が容赦なく撫でた。

 ビニールで閉ざされた扉をくぐれば、枯れ木を揺らす冬から夏模様を思わせる熱帯雨林に様変わりする。中は紫色の果実を実らせたパッションフルーツの樹が何十本も植わり、その列が縦に並び立つ。熱帯果樹の保護のため、ハウス内は暑いのだ。

 奥に控えるように黄色い実を付けているのはバナナだろうか。

 研修の一団に混ざる新卒者、日下部くさかべ 竜一りゅういちはそう疑問に思っていると、先頭にいる農場担当者がスターフルーツだと教えてくれた。たしかにうっすらと形が尖っている。遠目からではよく解らないものだ。


 天井を見やれば幾十もの水の虹がかかっていた。

 今は灌水かんすい(水やりのこと)の時間なので、ハウス全体を曇らせるそれは、床全体に行き渡らせた細いパイプ管から霧吹き状に射出されている。

 霧状に迸って、太陽光の粒子が輝いてみえるようだが、当然、水射出のスイッチを切れば虹は消えてなくなる。

 農場の説明が終わったらしい。


「――ということだ。では、そろそろ灌水終了の時刻だから、スイッチを切ってみよう。……日下部くん」

 新入社員研修の群れの最後尾にいた彼が呼ばれた。はい、と元気よく応じ、近づく。「昨日言ったところを押してくれ」

 昨日の時点でスイッチの場所は把握している……と、上司は思ったのだろう。しかし、彼は失態を犯した。

 三十秒も経過しているにもかかわらず、スイッチが分からなかったのだ。

 蒸し暑いビニールハウスの中で、クスクスと笑いが聞こえてきた。口々に言いあう。


 ――え。もしかして彼、スイッチ分からないの?

 ――まさか、昨日の今日だし、何十回も確認してるでしょ?

 ――そっかー。そんなわけないよね。

 ――そうそう。そんなわけない、という嘲笑のささやき。


「おいおい、早くしてくれ。根腐れでも起こしたら叶わん」

 数分伸びたくらいで根は腐らない。場を濁す冗談だと解っていても、竜一は早く止めようと試みる。一分が過ぎても、できなかった。

 自業自得だ。昨日は寝坊してしまってメモ帳のみならず、筆記用具すら忘れたのだ。その弊害が一日遅れで来たのだろう。どこにもない。昨日の記憶を辿ろうとしても、彼は混乱するしかなかった。

 額に居座るこの汗は、熱を持った身体がそうさせるのだ。


 その様子を見て、苦笑いを浮かべた農場担当者が、こんな言葉を彼に投げかける。まさに悪夢の始まりのような言葉が。

「えっ、スイッチ……分からないの?」

「――すみません。分かりません!」

 醜態の言葉を口にして、堪え切れずに一団が失笑。

 花粉の如く、周囲に散った。水蒸気を軽々かわし、飛散していった。

「……君ぃ、分からないって言ってもねぇ」


 鮮明に繰り返される追憶の情景。

 どうしてこの記憶ばかりが繰り返されるのだろう、ずきりと頭が痛くなった。

 世界ごと断ち切られるような鋭い痛みが竜一を襲い、頭を抱えてうずくまる。その様子を見てさらに笑った。

 あれらの声が、過去の鎖となって彼の身体を縛り上げる。これ以上は耐えきれない。

 空中に浮遊する水粒のすべてがこう言った。


 ――こんな基礎も基礎もできないなんてね。君、大学で何習ってきたの?


 ☆


 ぶるりと身体中に強い震えが生じた後、昨日と同じゴミだらけの自室に早変わりした。今上映された記憶はただの夢だったと分かる。彼は寝ていたのだ。

 竜一は毛布を少しめくり、上体を起こす。違和感を覚え、虫唾が走った。

 ビニールハウスでのトラウマの記憶で、服が肌に張り付いていた。

 シーツもぐっしょり濡れている。ひどい寝汗だ。

 はやく干さなければカビ確定だろう。が、あいにく今は梅雨。そうでなくとも干す気にはなれなかった。


 カーテンを閉め切った部屋のなか、目を細めて時間を見れば十二時を回っている。まだ昼か、今年で三十四になるニートの一日は暇すぎる。そう思いなおすほどに。

 ロフトベッドの上で下界――何年も放置したままのシンクに沈められた食器類や生ごみ、部屋には紙くずやカップ麺、安酒の空き缶が詰められたゴミ袋など――を見下ろした。

 ほとんど死んでいる。辛うじて生きているのはうるさいテレビだけ。

「日本国民の皆さんにお知らせします。現憲法にて初めて行われる『国民投票』が、四か月後に行われます。『国民投票』は国民の義務です。投票の際にはお近くの市役所か――」


 悪夢の原因はあれに違いない。

 連日あのテレビから発せられるCM雑音はとても耳障りなのだが、この生活によって慣れてしまっている自分がいる。

 リモコンはどこかに逃げてしまっていたのですぐには消せなかった。ベッドを降りて主電源まで赴くまでの気力はない。

 汚ならしい家になりつつある部屋をひと通り眺めるや否や、頭ががんがん鳴った。間近で鐘を叩かれたような轟音が痛みに変じて質量を持つ……重くなった。

 拒否反応が出て、またも過去の鎖に引きずられる。あの記憶は十年以上昔の出来事なのに、なすがまま、なすがままと、身体は毛布にくるまった。万年床特有の臭いで眉をひそめそうになる。

 いつもの日課に戻る。一昔前のスマホを触ってネットに没頭した。毎日触っているので、左側の保護シートに親指の爪で引っかいたようなひびが入っている。


 前の不採用通知からこの体制に至るまで、どのくらい経過したのだろう。十年間引きこもっても何も変わらない。

 それに、備蓄のカップ麺もそろそろ尽きてしまう頃だ。けれども、買い物に……外に行く気はまったく起きない。

 ネット注文すらしたくない。貯えが心もとないのもあるが、注文すれば玄関まで出向いていかなければならないからだ。見知らぬ人のために俺が動くなんて、したくない――彼の頭は我儘になっていた。

 子供の頃、まさかここまで重い鎖に繋がれる運命にいたとは到底思い至らなかった。こんな惨めな生活を送ろうとは――と思う反面、人間のゴミとしては当然の帰結だな、などと自己精神を甚振いたぶる毎日を送る。

 眼球と指先以外、微動として動こうとしない竜一の身体は、とれることのない強い疲れとだるけに満たされ、学生の頃に培ったはずの集中力や思考力さえも消失してしまっていた。

 自分はまるで人間の形をした紙人間――風で飛ばされそうなほど頭も身体も軽い。



 よどんだ空気が湿り気を帯びる。

 指先は相変わらずスマホの画面に触れている。ブラウザアプリを閉じ、画面を消す。暗い画面がテレビの光でぼやけた鏡になる。今の彼が映った。

 鼻まで伸びた前髪と、ぼさぼさ頭。枝毛だらけで、静電気で髪が逆立っているようにも見えた。

 垢まみれで荒れた肌を一瞥いちべつ。そういえば一週間以上はシャワーを浴びていないなと感じた。

 長髪になりゆく姿をひと目見て、いつから切っていないのか、歯磨きは……と、現実がもう考えたくないのでまた起動させた。

 すぐにブラウザを開き、昨日の続きをした。


『自殺 方法』――検索。

『自殺 場所』――検索。

『自殺 簡単』――検索。

『自殺 練炭 苦しい』――検索。

『自殺 (人身事故のネットスラング)』――検索。


 検索欄に単語を次々入れ、検索するだけ。

 以前は一ミリも考えたことがない概念であり、今も漠然としない心持ちは変わらない。しかし、これを検索しているときだけは起きていられる。死が指標となっている。横になる以外の、生きる糧だ。

 指先は氷上を滑るフィギュアスケーターの如く素早くフリックする。『自殺』になるとさらに早くなる。

 検索すれば、画面上部にうざったくなるほどに長い警告文と末尾に添えられた相談室の電話番号……くだらない。全部建前だろう。


 自殺を考えたことは数えきれないほどある。それをする勇気がなかったが、検索することはできる。

 だが、来月もそれが持つかと言えば、その気力もまたそろそろ限界かもしれない。

 遺書でも書けば実行できる勇気が湧くのだろうか、彼はそう思って書いたこともある。

 しかし、ネットにあげて……そのままだ。心配するコメントも評価すら何も来ない。やはり自分は……と、卑下する毎日だ。


 活力もない。

 金もない。

 食欲もない、動きたくない。何といっても――寝れない。薬すら効果がない。緩慢的になってきた。死にたい。

 でも……自殺をするにも道具を買わねばならない。

 まずは外に出なければならない、起きなければならない、前提としてそもそもお金がいる。

 無い場合どうすべきか――命が尽きるまで待つしかない、今日に至る。

 どのくらい横になれば、死ぬのだろうと、検索欄に『自殺 餓死遺体』と入れ、検索――した途端、変化が生じた。

 沈黙を破るように、手に収まっていたスマホが震え、ピコンと鳴る。画面の上部が下側に突き出した。メールが届いたようだ。



『遺言聞きましょう――この世から消える前に』

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