特定厨を操る者
フラッシュバック
横浜市中区にある臨港パークに到着したころには、すべてが出来上がっていたのだろう。私は、公園内を埋め尽くさんばかりに膨れ上がった民衆をかき分け、湾岸方面に走る。
横浜港を一望できる水際線までそれが続き、最前列の人と肩を並べた時、絶句した。
海を隔て、六百メートルも離れた所にある〝それ〟を、不謹慎ながら絵画でも見ているような感覚に陥ったのだ。朝焼けの日の光で横浜港に降り注いでいたのもあるだろうか。
「おい、あの車。フロントガラスに何か載ってるぞ」
「え? なになに……見えないんだけど」
「俺もわかんねぇよ。ぼやけてっけど、血まみれで人型をした――」
「ちょっと! それって遺体? 見せて見せて!」
緊張感のない、誰かの会話が明瞭に聞こえた。スマホのレンズを埠頭に合わせ、感想を言い合っている。その内容が、ひと時でも魅了された私を現実の海に引き戻してくれた。
遠景には横浜ベイブリッジが水平線上に横切り、向かって右側に位置するみなとみらい地区より新港埠頭九号バースが伸びている。
幸いこの日に豪華客船は停泊していなかった。仮に停泊でもしていれば、とても邪魔だっただろう。
埠頭の縁に引っ掛けるようにして、一台のハイエースバンが停車していたのだから。
埠頭の裾野には夥しい数のパトカーが、後ろに控える群衆を抑えている。
誰もが自分のスマホを手に掲げ、歴史を変えるひと幕を切り取ろうと努めているのだろう。こちら側にいる群衆と共に。
――なぜそんなところで停車している?
最初に湧いた疑問はそれだ。常人であればあんな場所に停車しようとは思わない。前輪は埠頭のその先で止まっており、
半分以上はみ出す格好は、まるで競泳選手だ。銀色に輝くハイエースバンは海に飛び込もうとして、時間停止させられたのだ。
私の質問に答えるように、ロケ車は絶えず強く光を反射する。疑義の霧はいつまで経っても払拭できない。
進展があった。パトカーと群衆をかき分けて埠頭にレッカー車が登場した。
横浜港ハンマーヘッド前を掠めてギリギリを攻める。先端まで到着した後、夢遊病者を連れ戻すように浮いた車の後部に金具を付け、後ろに引きずった。
がこん……という金属とアスファルトが擦れ合う音がここまで鳴り、件の車はバウンド。車輪を逆回転させて距離を縮める。
徐々にピントが合いやすくなってきたのか、一層話し声が大きくなった。
「おい、やっぱり死体が載ってるぞ!」
隣の男が認定の声を上げた。連れの若い女性がその声に反応し、長い髪を振り乱してスマホを強奪する。直後、驚愕が納得に切り替わった表情はかき消される。方向転換して車が正面を露わにしたためだ。
群衆はさらに歓喜をあげ、露骨な反応を示した。
シャッター音、無遠慮な視線、そして好奇の歓声。すぐさまブルーシートがかけられた――その瞬間をつき、私もスマホを向けた。ぼやけた後、ピントが合う。
フロントガラスは無残にかち割られている。
前方バンパーに付けられた楕円形のくぼみは痛々しく、どこかの街路樹か電柱に激突したかのようだ。
塗装が剥げているように感じられたのは現実逃避の一種だろう。銀のバンパーを覆いつくすほどに塗布された夥しい量の赤い顔料――血で塗りたくられていた。
その源流はどこだろう? 目を走らせるまでもなく、運転席側のフロントガラスを手で叩く〝人型をした何か〟。もう少しズームしてみた。間違いなく人間のそれである。
顔を下にして力なく倒れ込む少年の服はぼろぼろで、ふくらはぎから下は地面についてしまっている。眼をそむけたくなるほど原型がない。
遠目で見て正解だ。肉がちぎれて骨が見えていたのかもしれない。
既に息がないことは一目瞭然。にもかかわらず、何の抗力か、少年はガラスに張り付く吸盤のごとく姿勢を保っていた。
その様子を面白がるようにやじ馬どもは容赦なかった。
あとでSNSを見てみれば、不謹慎なトレンドばかりが総なめした。
「ひき逃げ事件」
「暴走車」
「小六遺体」
「遺体流出」
「誹謗中傷」
「特定配信」エトセトラ……。
すべてが目の前の状況を残酷に示す言葉だった。
ブルーシート付近の、警察官の出入りが激しくなる。
大破した車のドアが開けられたらしい。黒白に塗装した車を寄せ、バンを隠すように停車する。
やはり深夜の特定配信通り、あの車の中に人がいたのだ。
青いシート越しに続々と降りてくる光景が目に浮かぶ。ひき逃げ犯たちが我が物顔で別の車へと闊歩する様子が。
あとで警察関係者に独占取材を行ったところ、運転席のドアから降りてきた男――あだ名は『ジャック』という――は特にひどかったらしい。手には高級そうなワイン瓶を持ったまま、周りが見えていないほど酔っ払っていた。
その状態でハンドルを握ってここまで走り続け、奇跡に近い角度で停止した……飲酒+片手運転、それ以上のことをしているのは確かだった。
「どうだ! これが俺の〝無謀なこと〟! これ以上危険なことなんてないだろっ。ドライビングテクニックなら俺に勝るものはいない! 免許返納なんてまだ大丈夫なんだよ。
おい! 『ルーク』! 今回は俺の勝ちでいいよな。じゃあ、今回の罰ゲームはお前で決定な!」
二人がパトカーに納まったあと、
走り出した車内でも彼は悪びれもせず、警察署に着くまでべらべらと喋り散らかしていたという。歪んだ功績を、声高々に。
現時刻をもって
他の同乗者も右に同じ。すぐさま手首に手錠がかけられ、するすると導かれた。
運転手を含めて、ハイエースバンに同乗していた者は四人だった。
加害者を載せた二台とすれ違って、覆面パトカーの後部から一人の女性が出てきた。
身なりからして被害者の母親だろうか。全身を赤い服装で固め、腰までスリットが入ったドレスがみなと風で波紋状に
警官に導かれ、おそるおそると言った様子でブルーシートの中に入る。裾を地面にかすらせつつ、海風で焦燥の身体を震わせていた。
細いくびれにまとわりつく毛先は、巻き戻せぬ現実を直視できていない。
諦念気味の救急車がやってきてどの程度経ったか分からない。
生きた白で死んだ銀を隠し、さらに青で覆われたベールの中で逡巡した時間が流れる。
認知し、絶望の色をにじませる啜り声がかすかに聞こえてきて、瞬刻、金切声に変じた――ように思えた。
絶鳴。
好奇心の騒音で聞こえるはずはない。その上この距離だ。六百メートルという物理的距離すら
薄い膜越しに好奇な眼差しがあるところで、絶命しながらも必死に張り付いたままの我が子を見てしまう。
頭上はがら空きで、二台のヘリが港を見下ろしていた。残酷で無遠慮極まりないマスコミが生中継していたのだ。
それでも彼女の腰は砕け落ち、亡骸を抱きしめ、その上から
職業を恨んだ。あの頃は別の職業で、単なる聴衆だった私はライターになっていた。時間とは残酷なものだ――色褪せることのないこの事件のように。
私は、あの日の……六年前でも頭に沁みついて離れない状況を克明に、嘘偽りなく文章に籠めなくてはならない。
私情は挟んではならない。けれどもあのとき聞こえてしまったのだ。
耳を澄ませなければ聞こえないほどの幻聴。私だけが聞いてしまい、そして悟った。使命感に目覚めたのだ。
たった今遺族になってしまったあの声が、忌々しき『あの法律』の
その法案の是非を問う、現憲法では史上初となる国民投票が近々行われようとしていることを。
だからこそ、あの時の私は群衆の中で隠然たる拳を作り、決心したのだ。
――特集を組むべきだ、この悲惨さから目を背けないためにも。
ネット特集:
〝府中市立小六児童ひき逃げ特定事件〟
第一弾執筆者:
町田 日向(フリーライター)
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