彼女の幻像

牧神堂

彼女の幻像

 妻が妊娠した。僕もついに人の親となる時がきたわけだ。

 妻から子供が出来たと報告を受けた夜、僕はそれまでの自分の人生を感慨深く振り返った。

 引っ込み思案だった少年時代、趣味のマンガ描きに没頭した学生時代、受験の失敗による挫折経験、就職してからのあれこれ。

 基本的に起伏に乏しい凡庸な人生なのだが、一つだけ今でも僕の人生に影響を及ぼし続ける大きな事件がある。

 それは32歳になった今からするとちょうど人生の真ん中、16歳の時に起こった。




 通っていた高校は家の近くにあった。通学は徒歩で、僕の部屋は友人達の溜まり場になりがちだった。

 学校が終わると、部活をしてない僕は友人らと前の晩のアニメの話なんかしながら自宅に向かう。

 同学年の佳奈はよくその少し後ろを歩いていた。家の方向が同じなのだ。


 佳奈はうちの近所に住む幼なじみだ。子供の頃はよく一緒に遊んだが、成長するにつれ話す機会は減っていった。

 同じ高校に進学してもクラスが別になったせいもあって交流はほぼない。

 いや、クラスが違うとか、それは言い訳。実は僕は佳奈のことを意識し過ぎて話し掛けられなくなっていたのだ。

 だって、中学の終わり頃から佳奈はえらく可愛くなっていったから。


 佳奈と過ごした幼い頃の思い出はたくさんある。

 幼稚園で佳奈がいじめられていたのを、勇気を振り絞って暴れん坊に立ち向かい助けたことがあった。基本的にへたれな僕が唯一ヒーローになれた瞬間だ。

 捨てられた子猫を二人で見つけ、彼女の家の物置の中でこっそり飼っていたこともある。色々あってその後、猫は彼女の家の正式な飼い猫に昇格した。

 家族ぐるみの付き合いがあったので、両家で遠出してキャンプに行ったり海水浴に行ったりもした。海水浴といえば小学校中学年の時、彼女は僕の目の前で真っ裸になって水着に着替えた。その姿に心底ドギマギしたものだ。

 それだけ多くの時間を共に過ごしたのに、高校では顔を合わせても挨拶もしない関係になってしまった。

 僕は何となく彼女を避けてしまう。そして、それは向こうも同じだった。何かの弾みに目が合ってもばつが悪そうに俯くだけ。


 佳奈は僕と違って下校時には一人だ。それは彼女が帰宅してすぐ塾に行くので、友人を連れて帰るわけにはいかないからだ。

 そして、その日は僕も珍しく一人で帰りの道を歩いていた。

 たまたまだった。電車通学している友人達はそれぞれに用事があって真っ直ぐ駅に向かったのだ。

 僕の少し後ろを、いつものように佳奈が一人で歩いてくるのが分かる。

 何だかちょっと気まずかった。そのままずっと同じ道を進んでいくのだ。

 

 歩道のない2車線道路の白実線の内側、狭い路側帯を僕達は4、5メートル離れて家のある方へ向かい歩く。

 目に入るのは道に沿って続く民家の高いブロック塀と電信柱。雲が浮かぶ晴れた空。

 秋が深まる季節の、僅かに冷たい緩やかな風が頬を撫でる。

 突然、佳奈が声を掛けてきた。

「ねぇ、あっちゃん。待って」

 佳奈は子供の頃からアツシという名の僕をあっちゃんと呼んでいる。久し振りにそう呼ばれた。

 僕は立ち止まった。

 なぜだか変に心臓が高鳴る。幼なじみに呼び止められただけなのに。佳奈の声色に僕の無意識が何かを感じ取ったのかも知れない。

 動揺を顔に出さないよう、必死に自分を落ち着かせながら僕は振り向いた。

 数メートル先、佳奈は顔を真っ赤にして立っていた。

「ちょっと、ちょっとだけ聞いて……」

 佳奈は言葉を押し出すように言う。

「う……うん」

 僕はうなずき、身体を半転させて佳奈の方へ向けた。妙に膝が震えてくるのを全力で止める。

 距離を保ったまま向かい合って立つ僕達。

 何だ、佳奈。何を言うんだ? 僕の頭は大混乱。

 佳奈は深呼吸を二回した。

「こんな、こんな二人きりの状況って、もう滅多にないから……。だから今。思い切って、思い切って言うね」

「えっ、うっ、うん」

 僕は思考停止状態になっていた。うんとしか言えない。

 佳奈はきゅっと目をつむって叫んだ。

「あたしね、あ、あっちゃんのことがずっと、ずっと……す……」


 急ブレーキの凄まじい音が佳奈の言葉の続きを掻き消した。

 続いて僕の眼前で起こった惨劇。

 僕の後方から走ってきた大型バイクがすぐそばで転倒したのだ。

 火花を散らしながら轟然と路面を滑ってきたバイクは佳奈を直撃し、佳奈は吹っ飛んでブロック塀に凄まじい勢いで打ちつけられた。

 一瞬の事で、彼女は悲鳴すら発しなかった。

 そこからはスローモーションの世界にいるかのようだった。

 ブロック塀に張り付いた佳奈はがくりと頭を垂れ、僕の目の前でずるずると地に落ち、ゆっくりくずおれてゆく。

 塀の表面に佳奈の血の跡がえがいたように残った。

 僕は、ただ、立ち尽くしていた。





 友人達と歩く下校の道。

 事故のあった現場に差し掛かると、ふと後ろに気配を感じる。

 振り返ると、佳奈が立っている。

 ぼんやりと身体を透けさせた佳奈が。



 目眩がするほど驚いた。絶叫した。

 友人達は唖然と僕を見る。次に僕が震えながら指差す先を見る。

 どうしたんだ? そう聞かれた。

 彼らに佳奈の姿は見えていなかった。


 佳奈は顔を紅潮させて僕を見つめ、何か言いたそうに口を開く。

 そして、消えた。


 僕は幻覚を見たのだろうか。

 が、それが下校時に何度も起こった。

 事故の起きた同じ時間帯にあの場所で振り返ると佳奈が現れる事にすぐに気がついた。

 僕だけに見える佳奈。

 何かを伝えたそうな佳奈。

 何を言いたいのかは察している。

 僕も同じ気持ちを佳奈に対して抱いていたんだ。

 だからあの時の言葉の続きをはっきりさせたくて僕の脳が幻影を作り出しているのか?

 そう合理的な解釈をして自分を納得させようともした。

 でも、おかしい。

 だって、その件については既にもう……。




「それ、どういうこと?」

 そんな責めるような顔されても困る。

「別に僕が何かやったわけじゃないし」

 口を尖らせ僕は返事した。

「あたしのせい?」

「いや、そうは言ってないよ」

「あたしの幽霊が出るなんて気持ち悪いんだけど」

 見舞いに行った僕に、病室のベッドに横たわる佳奈は不満げに言う。


 僕と佳奈は既にお互いの気持ちを確かめ合っていた。

 佳奈は骨折して重傷を負ったが命に別状はない。

「生霊ってこと?」

「うーん、どうだろ。僕は残留思念かなって思ってるんだけど」

 ネットで調べまくって自分なりに立てた仮説を僕は口にした。

「ザンリュウシネン?? 何、それ?」


 僕は説明した。

 思念の残留とは人が何かを強く思った時、思いをいだいた場所にその思考や感情が刻み付けられ、そのまま留まる現象をいう。

 その刻印されたものが残留思念。場所に保存された特定の感情と言ってもいい。

 当然科学的に認められているわけではない超常現象の一つだ。

 それは怒りだったり、悲しみだったり、恐怖だったり、欲望だったり、絶望だったり、とにかく極めて激しい感情が発露した時に起こる。だから恋愛絡みの情動でもそれが生ずることは充分に有り得るんじゃないか。

 保存されている以上、条件によってそれは再生される。感情を放った当事者の姿を伴う事も多い。また視覚化されないタイプの残留思念であっても、再生によってその場所にいる人の感情に干渉したり体調に影響を与えたりする。

 異常な死の間際には強い思念が生まれる。その為、たいていの残留思念は死者が残していったもののようだ。世の中で目撃される幽霊の何割かは霊ではなく、この残留思念に過ぎないらしい。

 が、生者の残留思念というものも普通にある。ただし、生者の思念で本人の姿が現れるケースはレアだと思われる。

 

「えと、つまり、あたしのあの時の思念があたしから分離してあの場所に残ってるわけ?」

「そういうこと。僕にしか見えないのは僕にだけ向けられた感情だからなのかな」

「切り離されたトカゲのしっぽみたいな?」

「その例えは分かるような、よく分からないような……」

「告白する時の感情の高ぶりなんて誰にでもあるでしょ! 何であたしだけ……」

「それはやっぱり事故の影響だろうね。同じ瞬間に命の危険に晒されて、気持ちの高ぶりが変な具合にもつれ合って極限まで増大したっていうか」

「うー。何かやだからそれ消去してきてよ」

「え。無理言うなよ……」


 佳奈が退院した後、僕らは二人であの場所に行った。

 本人がそこにいてもやっぱりあの日の佳奈は僕の目の前に現れた。

 そして、その姿は佳奈自身には見えなかった。

 だから佳奈はずっと半信半疑だ。




 佳奈と結婚してもう何年にもなる。

 佳奈はすっかりふてぶてしくなり、僕もおじさん化に向け一直線。


 僕達はごく普通の夫婦だ。

 つまり、時には気持ちの行き違いがあったり喧嘩したりして、互いの存在をうとましく感じることもある。

 そんな時、僕はあの時間のあの場所へ行く。

 

 高校時代の初々しい佳奈がそこにいる。ずっと変わらずにいる。

 頬を染め、何度もまばたきしながら僕を見つめ、必死に言葉を搾り出そうとする愛らしい佳奈が。

 その様子を眺めていると、妻への愛情が沸々と蘇ってくる。

 


 僕には一つ期待していることがある。

 生まれてくる子供のことだ。

 もしかしたらだけど、僕の血を引く子供にはあの日の佳奈の姿が見えるんじゃないかと。

 小さな可能性かも知れないけど。

 もしも期待通りだったら……。

 ママがパパにどんな顔して告白しようとしたか見せてあげられるのにな。

 その時の子供の反応を想像すると、ちょっと意地悪な笑いが込み上げてくる。

 子供の前で佳奈が僕をないがしろにしても、僕はきっとパパの威厳を保てるはずだ。


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