切り替え。

「あぁぁぁぁ仕事辞めたい」


程よく酒が入り酔っぱらった人でごった返す店内。

少しヘアゴムの痕が残った長い黒髪をばさつかせながら女はジョッキの中で揺れるビールを一気に呷った。


「何回言ってんのさ」


それを見ながら彼女の正面に座る短い茶髪の女はどっと息を吐いて肩をがくりと下ろす。


「というか私何回も言ってるじゃん、いい加減あのブラック辞めたらって」

「んー…分かってるけどさぁ」


正論パンチを真正面から受けた黒髪は酔いに任せて頭を振り上げる。後ろの席に座っていた客にそれが当たったが、当然ながら酔っぱらっている客はそれに気が付くことなく店の端にあるテレビに当たり散らかしはじめた。


「だって、あんだけ会社受けて唯一受かった会社だよ?あそこ辞めたら次どこ雇ってくれるか分かんないじゃん!ニートなんてやだよぉ!」

「だーれもニートになれとは言ってないでしょ、雇ってくれるところがあるまで探せばいいの」

「あんたは内定一発でもらったからそんなこと言えるんだぁ!」


ぐらりと頭を揺らした黒髪が椅子から倒れそうになるのを支えながら茶髪は今日何度目か分からないため息を吐く。何か反論できればいいのだが、彼女の言っていることは事実であるため何も言い返せないようだった。


一瞬の静寂が店内を包む。その静寂はまるでそこに2人しかいないように茶髪を錯覚させた。


テレビから流れる心地よい打球音によって店内は一層喧噪に包まれる。こういう現象を「天使が通った」などというらしい。まぁ、実際はホームランが決まるか決まらないかで起こった必然の静寂ではあったが。

しかしそのタイミングで黒髪の彼女の中に善意という名の天使が通って行ってささやいてきたようだ。


「あ…ごめん、相談に乗ってくれてるのに」


彼女は申し訳なさそうに顔を俯かせる。


「いや、いいよ。それだけストレスってことだもんね」


静寂の時のまま、表情を凍り付かせていた茶髪だったが、黒髪の言葉に氷解したようにそう返した。


「まぁ、仕事辞めたくないのは事実なんだよね。一応頑張りたいとは思ってるし」

「うんうん」

「ただ、休みの日でも上司とか仕事がちらつくのが嫌なんだよねぇ」

「あーあんたは昔からそうだったね、夏休み初日だって言うのに宿題がちらついて泣き始めるようなやつだったわ」

「いやね、自分でも分かってんのよ!?気にするようなことじゃないってのは!でも気になるの!この気持ち分かる!?」

「分からないけど、分からなくはない」


悲痛な叫びをあげる黒髪に曖昧な返事を返して茶髪は目の前にある最後のだし巻き卵を頬張る。噛むとじゅわりと出汁があふれ出て口内を満たした。


「要するに切り替えがうまくできないって話でしょ?」

「そう!」


某弁護士ゲームばりに指を突きつける黒髪。そういえばあの主人公も黒髪だったな、なんて思いながら茶髪は眼前に突きつけられた指を払いのける。黒髪もそれがいつものことなので特に気にしていない様子だ。


「あーあ、鞄みたいに脳みそも仕事用、遊び用って切り替えられたらいいのになー」


黒髪がそう、ふと零した。


「どういうこと?」

「ほら、鞄って仕事用と遊び用って分けて用意できるじゃん。それと同じで脳みそもほら…」

「物理的に切り替えたい…と」

「そう!」

「やる気スイッチみたいな?」

「違う!仕事用と遊び用の脳みそを別に用意するの!」


黒髪は酔っているようだ。


「…仕事用メイクと遊び用メイクで切り替えるみたいなのあるじゃん、そういうのじゃ駄目なの?」

「それができないから悩んでるんでしょ!」


呆れながらも代替案を提示する茶髪に黒髪は再び人差し指を突きつける。


「まぁ、そんなことできないんだけどねぇ」


しかし自分の言っていることがあまりにも突拍子もなく無理難題なことを悟った彼女はため息を吐きながらどかりと椅子に座り直した。


2人の間にだけ、一瞬の沈黙が流れる。

その沈黙を破ったのは茶髪の方だった。


「できるよ」

「…え?」


一言、ポツリとそう告げる。

今までにない回答に無理難題を吹っ掛けたはずの黒髪自身があんぐりと口を開いた。


「できるってどういう」

「だから、脳みそを入れ替えれるって言ってんの」

「…あの言っといてなんだけどさ、無理でしょ」

「できるから言ってんのよ」


やれやれといったように茶髪は肩にかからない程度のセミロングをふわつかせながら首を振った。


「まずあんたに適応する脳みそを2つ用意するでしょ?で、その脳に基本情報を入れて、この脳で保管する内容と保管させない内容を学習させる。まぁこれはもし入れ替え忘れて行っちゃったときの保険ね。で、脳内で起こす思考構造を仕事用、遊び用と分けてそれぞれプログラムさせて、あ。ここはある程度あんたも口出しできるわよ。そして後は今使用している脳みそを取り出し…」

「ちょっとストップストップ!!!」


つらつらと続ける茶髪の口を手で塞ぎながら、黒髪は叫んだ。


「ちょっとあんたどうしたの!?そんなこといいはじめて!」

「だって、あんたが脳みそ物理的に入れ替えたいって言うから」

「最初からできると思って言ってないから!」

「まだ具体的な部分言ってないわよ?ほら、どうやって脳みそ取り出すとか、あーちょっとグロい話になっちゃうんだけど」

「じゃあしなくていいよ!」


黒髪がまた叫ぶ。普通なら迷惑行為だが、十分うるさい店内ではひそひそ話程度のうるささでしかないようだ。

ばんと机を叩いて再び自身の言葉を遮った黒髪を見ながら、彼女は小さく肩を震わせている。


「…何?」


それを怪訝に思ったのか、黒髪は茶髪の顔を覗き込む。

すると茶髪はすぅっと息を吸い込んでから今度は大笑いしはじめた。


「なんなのよー!」

「はーおっかし」

「何が!」

「だって全部でたらめなのにそんな焦っちゃってさぁあんた」

「はぁ!?」


真実を聞いた黒髪はげらげらと笑う茶髪の肩を大げさに揺らす。


「あんたねぇぇぇ私は本当に悩んでるんだからね!!!!」

「分かってるわよ!でもまさか信じるなんて…あはははは!」

「信じられない!こっちはあんたを親友だと思って話してるのに!」


黒髪は顔を真っ赤にして怒っている…つもりなんだろうが、酔っぱらっていて元から顔が赤かったからか、ぷんすこ!と可愛い効果音程度にしか見えない。それを見て茶髪はさらに笑う。

その態度に切れたとまではいかないものの、一旦頭を冷やしたいと考えたのか、黒髪はがたりと席を立った。


「ちょっとトイレ行ってくる!」


そう告げて、黒髪は喧噪の中をかき分けて行ってしまう。

少し癖づいていたはずの髪はすっかり元通りの綺麗なストレートに戻っていた。

ひぃっと息を吸い込んで、いつの間にか零していた涙を拭った茶髪。クリアになった視界で人ごみに溶けていく背中を眺めながら彼女はふと呟く。


「本当に…できたらよかったのにさ」



(暗転)

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短編 恋愛系まとめ めがねのひと @megane_book

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