ピアノと秘密。

吹奏楽部も合唱部もなかったうちの学校では、音楽の授業でしか使われないグランドピアノ。でも5月頃からだろうか、授業が全て終わったはずの放課後に音楽室からピアノの音が聞こえるようになった。

最初は単音が時折聞こえるだけでメロディーなんてものはまったく分からなかった。でもセミが鳴き、葉が紅く色づき、白い雪が降り積もった頃。ひとつずつだった音が連なり、重なり合ってメロディーになって耳に届くようになった。何とも、子供の成長とは凄まじいものだと瞳が潤んでしまったのはきっと歳のせいなんだろう。


放課後を告げるチャイムが鳴り、教室からバタバタと走り去っていく生徒たちをゆるやかに避けつつ職員室への廊下を歩いていた。普段なら注意しなくてはいけないところだが、今日くらいは許してあげよう。

今日は3年生の卒業式前最後の登校日。部活に顔を出す3年生も多かったはずだ。別れを惜しむ時間は一秒でも長い方がいい。

ふと音楽室の扉が目に入った。


(誰が弾いてたんだろう)


いつの間にか聞こえなくなったピアノの旋律を思い出すように目を閉じる。ドアを開けてしまえばすぐ分かることだったんだろうが、練習の邪魔をしては悪いと思って、結局誰がピアノを弾いているのかは謎のままだった。


(もう一度…)


刹那、小さく単音が耳に届く。


「え?」


聞き間違いかと思いドアに耳を傾ける。しかし聞き間違いを否定するように小さな音強さを増し、確かに連なっていく。それの旋律は確かに耳馴染みのある…あの旋律だった。

向こうの迷惑など顧みずに冷たいドアノブに手をかける。古いせいか建付けの悪い重たいドアが音を立てて開いたとき、その旋律はぴたりと止んだ。


「誰だい?」


声に出ていた言葉にグランドピアノから覗く頭があわただしく揺れた。それを見て自分の声色が思ったより厳しくなっていることに気が付いて慌てて弁解する。

「怒っているわけじゃないんだ…ただ誰が弾いているのか気になって」

深呼吸をひとつして言葉を紡ぐ。ひと時の静寂の後、聞き覚えのある声が教室の空気を震わせた。


「お久しぶりです」


ひょっこりと顔を出したのは完璧少女と謳われた少女だった。


「ごめんなさい、久しぶりに学校に来たのでどうしても弾きたくなっちゃって」


立ち上がってからぺこりとお辞儀をする彼女に、あぁこの子はいつも礼儀正しく挨拶をしてくれる子だったなぁと思い返す。


「いや、いいんだよ…そうか、あの旋律は君のものだったのか」

「あの旋律?」

「ずっと練習していただろう?」

「えっ!」


感動的な音との再会を喜ぶ私とは別に彼女は顔を真っ赤に染め上げた。


「あれ…聞いてたんですか」

「うん…こんなに上手になって」

「うぅ…」


下手だった頃の演奏を聞かれていたことを今更知った彼女は弱弱しい声で呻きながらずるずるとしゃがんでいく。

バレたくなかったんだと、何となく悟った。

教職員にさえ何でも出来るのでは言われていた彼女がこんなにも努力家だったなんて今知った。完璧少女という言葉の陰でこんなに努力していたことも。きっと彼女は上手く隠していたんだろう。

ここで出来る反応は2通り。1つは完璧な人間じゃないんだと幻滅することそしてもう1つは。


「やっぱり君は凄いね」


最大限の気持ちを込めて笑いかける。私の言葉を聞いて彼女も涙を溜めていた目を閉じて笑った。



(暗転)

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