球技大会(6)
もう――逃げることができない。
彼がジンクスの意味を知ってしまった、いま。
梨緒子の気持ちは、すでに秀平に届いているはずなのだから、はっきり告げるしか、道はない。
「秀平くん。あのはちまきが、私の気持ち、なの」
言ってしまった。
もはや、後戻りはできない。
目を見開いたまま、秀平は固まっている。微動だにせず、まるで美術彫刻のようだ。
もう、周囲の歓声は何も聞こえない。
長い長い沈黙のあと、秀平はようやく言葉を返した。
「どうして俺なの?」
秀平の声だけが梨緒子の耳へと届く。動揺しているようには見えない。
「なんで安藤じゃないの?」
秀平の端整な面持ちは、無慈悲なまでに冷たい。
どうしてよいのか分からずに、困惑しているようだった。揺れる眼差しがそれを物語っている。
「何で俺なんかを好きだって言うのか、よく分からない」
梨緒子はいまにも泣いてしまいそうだった。しかし、必死にそれをこらえる。
何をどう言っても、伝わらない。
「江波は、俺よりも安藤といるときのほうが、ずっと楽しそうだし」
また、だ。
二言目には、安藤安藤と、そればかりだ。
「分かった。もう、――いい」
それからしばらく、無言の状態が続いた。
バドミントンの熱戦を眺めながら、どうしようもない居心地の悪さを感じていた。
出番なんて、永遠にやってこなければいい。
その時である。
周囲の歓声にまぎれるようにして、隣に座る秀平の呟きが聞こえてきた。
「俺は……江波と話してると、楽しいと思う、けど」
それが自分に向けられたものだと分かり、思わず秀平に聞き返した。
「けど、何?」
「何って…………別にそれだけ」
楽しいと、思う――とりあえず。
そうなのか、と他人事のように納得してしまった。
顔面負傷しながらのファインプレーを見せた類少年が、試合を終えてすぐさま、梨緒子の元へとやってきた。
「リオー、さっきのタオル! 鼻血止まんないってーの」
「大丈夫? ルイくん」
梨緒子は言われるがままに、素直にタオルを渡してやる。
「リオ、A型だろ? 同じだからさ、俺に輸血してー」
「もう。オーバーなんだから、ルイくんってば」
隣にいる秀平は、黙っている。
膝を抱えた体育座りのまま、次の対戦を物憂げに眺めているだけだ。
類と秀平という組み合わせになると、梨緒子は途端に緊張が増してしまう。どちらに話を合わせても微妙にずれが生じ、上手く間を取り持つことができないのである。
「このままじゃ五戦目までもつれ込むかもな。リオの出番だぜ? 俺、しっかり見てるから。勝たないと許さないからな?」
「うーん、勝てるかどうか分かんないけど……秀平くんが頑張ってくれると思うから。ね?」
反対側を向いて話を振り、秀平に同意を求めた。
しかし。
突然秀平は立ち上がり、首を振った。
そして、二人を見下ろすようにして言い放つ。
「安藤、江波に余計なプレッシャーかけるの、止めれば?」
「よ……余計な、プレッシャー?」
「球技大会なんて、ただのお遊びイベントだろ。許すとか許さないとか、そういう問題じゃないんじゃないの?」
秀平はそのままくるりと背を向けて、どこかへ立ち去ろうとする。
類は慌てて秀平を呼び止めた。
「おい、どこ行くんだよ」
「俺がどこへ行こうと、安藤には関係ないだろ」
振り返らぬまま、答えが返ってくる。その語調からは、秀平の不機嫌さがはっきりと聞いてとれた。
「関係なくないだろ。バドミントンは一応、団体戦なんだからさ」
類がなおも背中ごしに問いかけると、秀平は面倒くさそうに一度、振り返った。
「いくら二人一緒が楽しいからって、周りを気にせずに騒ぐのはどうなんだよ。……出番までに戻ってくれば文句はないだろ」
――し、しまった……。
秀平が本気で怒っている。
「待って、秀平くん!」
追いかけようと立ち上がりかけたところを、類に腕をつかまれて引き戻されてしまう。
「放っとけよ、リオ」
「だって……」
「ああいう奴なんだよ。孤高なんて言えば聞こえはいいけど、単に自己中心的なだけなんだ。こんなにうるさい体育館でよ、別に俺たちだけが騒いでいるわけじゃないし。ったく、難しいヤツだな」
類の弁護も、いまの梨緒子には何の助けにもならない。
ただ残るのは、秀平を怒らせてしまったという事実だけだ。
「なあ、リオ。永瀬と一緒にいて、ホントに楽しいのか?」
「ええと……あんまり」
友達として純粋に楽しみを分かち合える相手ではないことは、確かである。
類はタオルで乾いた鼻血を拭いながら、おどけたように笑った。
「理想と現実のギャップに、ようやく気づいたってところか? 女子はホント、男を見る目がねーよなあ」
「ルイってば、まるで自分は女を見る目があるって言ってるみたいじゃない?」
秀平のいなくなったスペースに、美月が移動してきた。遠くから様子を見守っていたらしい。すんなりと話の輪の中に加わってくる。
ルイは鼻血タオルを握りしめたまま、肩をすくめてみせた。
「なんだよ美月、お前まだいたのか? バレー女子、そろそろだろ?」
「うちのクラスは第三試合なの。それより早く保健室に行ってきたら?」
「へいへい。俺もリオの出番までには戻ってくるから。ちゃーんと応援してやらねーとな」
類少年がいなくなってしまうと、梨緒子は一気に脱力した。しかし、重苦しい心はまだ晴れない。
「気にすることないって、梨緒ちゃん」
親友の慰めの言葉に、梨緒子は少しだけ癒される。
「でも……ルイくんと騒いでたのは事実だし。秀平くんにうるさがられてもしょうがないんだけど」
「永瀬くんってさ、普段怒ったりしないじゃない?」
「そう。だから、あんなに怒るだなんて、相当迷惑だったんだよ、きっと……」
梨緒子がため息混じりにそう言うと、美月は堪えきれずに笑い出した。
訳が分からずに唖然としていると、親友は楽しげに言った。
「梨緒ちゃんって、かなり鈍感だよねー。ルイもかなり鈍感だけど……」
それ以上、美月の口から『鈍感』の意味が説明されることはなかった。
試合はとうとう五戦目まで持ち越された。
梨緒子は、秀平と初めてペアを組んで、バドミントンをすることになった。
タイミングを見計らったかのように、秀平がどこからか戻ってきた。梨緒子に声をかけることなく、ひとり黙々と準備を始めている。
意思の疎通が難しい。
練習のときは向かいあって打ち合うだけだったが、今度は同じコートの中にいる。一つの球を、二人で同時に追いかけるのだ。
ふと、梨緒子は気づいてしまう。
――あ……はちまき、してくれてない。
秀平は、クラスで配布されたピンクのはちまきをつけていた。
ひとりコートの隅でラケットの素振りをしている秀平の後姿を見て、梨緒子は深々とため息をついた。
ジンクスのことを、聞いたと言っていたはずなのに。
梨緒子の渡したはちまきをしていない、ということは。
――何やってるんだろ、私……。
そういう、ことなんだ。
『話していて楽しい』と、『好き』は別物だ、ということなのだ。
ものすごく、中途半端だ。
なんだか、どうでもよくなってしまった。
試合が始まってからも、梨緒子はただコートの真ん中に立ち尽くし、絶好の球もラケットを何度も空振りさせてしまう。
シャトルが次々と床の上を滑っていく。
いくら運動神経が優れている秀平でも、なかなか手出しできないようだ。
コートを取り囲む応援席に、敗色濃厚の雰囲気が漂っている。
「タイム、いいですか? 一分だけ」
見るに見かねたのか、秀平が審判に片手を挙げて一時休止を申し出た。
素早く近づき、梨緒子の顔を覗き込むようにする。
「具合悪いの? 止めるか?」
「……ううん、止めない」
コートを取り巻く空気が淀んでいる。応援してくれているはずのクラスメートの顔もおぼろげだ。
「あのさ、江波」
秀平は梨緒子の耳元に口を寄せ、周囲に聞こえないようにそっと耳打ちした。
「俺、ジンクスとかそういうの信じてないから」
梨緒子は思わず、耳元の秀平を振り返った。
触れ合えそうなくらいの至近距離で、ゆっくりと瞬きを繰り返す秀平の顔を、穴の開くほど見つめてしまう。
ばれている。恥ずかしい。
そんなことでやる気をなくしてしまって、落ち込んでいるなんて。
きっと、呆れ返っていることだろう。
「馬鹿だよね、私って。ホント馬鹿みたいでしょ」
「……馬鹿だとは思ってないけど。でも、いまは試合中だから」
「ゴメンなさい……」
「何で謝るの。取れないところは俺がカバーするから。あと、江波がくれたはちまきのことだけど……」
震える――。
梨緒子の身体の内側の何かが、震えている。
「つければいい?」
心臓の鼓動が跳ね上がった。
秀平は表情を変えず、淡々と耳元でささやくように言う。
「でもさ、江波が余計な気をつかうことになるんじゃないの? ……よく分かんないけどさ」
秀平が軽く目配せをした。
そちらを振り向くと、コートの脇で心配そうに見つめる美月と、別の意味で心配でやきもきしている、保健室から帰ってきたばかりの類の姿。
そんなことにまで、気をつかわれているなんて。
「秀平くん……」
「江波、だから――とりあえず、試合が終わるまでは、頑張れ」
秀平は梨緒子を励ますようにして軽く腕を叩くと、ゆっくりとその場を離れ、そのまま所定の位置へと戻っていく。
あと数ポイントで負けるという絶望的なスコアを前にして。
梨緒子は額の汗を拭うフリをして、ジャージの袖で涙のにじむ目をこすった。
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