球技大会(5)

 バドミントンの試合が始まった。

 一番手の類少年とペアを組む佐藤という女子生徒が、コートの中に入っていく。

 ペアを組む選手はコート脇に固まって座ってたほうがいい――そう、美月がクラスメートに提案してくれたお陰で、梨緒子と秀平は触れるか触れないかの微妙な距離で、隣り合うようにして座らされた。

 親友の強引ともいえる後押しが、梨緒子のなけなしの勇気を奮い立たせる。


 ――何か話しかけなくちゃ。ええと……。


 しかし。意識をすればするほど、緊張が高まっていく。考えを巡らしながら、意味もなくジャージの袖を上げたり下げたりまくってみたり、どうにも落ち着かない。


「どうしたの、江波」


 挙動不審の梨緒子に気づき、秀平は一瞥をくれるようにして、ちらりと視線を向けてきた。


「えっと、うん、何だか、き……緊張しちゃって」


 特に会話を続けるわけでもなく、秀平は再び、目の前で繰り広げられるバドミントンの試合に見入っている。


 ――せっかくのチャンスなのに、上手く喋れないよ……。


 緊張と焦りが増すばかりだ。こんな状態でバドミントンのダブルスなどはたしてできるのか、梨緒子はいっそう不安に駆られてしまう。

 すると。

 シャトルの動きから目を離すことなく、秀平が呟くように言った。


「そんな気負わなくてもいいと思うけど。俺たち、出番ないかもしれないし」


 向こうから話しかけてくれた。

 梨緒子はチャンスとばかりに、少しずつ自分の気持ちを表に出していくことにした。


「それは……ちょっと残念、かも」


「残念? そんなにバドミントンがしたかったんだ、江波は」


 やはり。梨緒子は思わず脱力してしまう。


「あのね、秀平くん……そうじゃなくて」


 梨緒子は秀平の表情を確かめようと、顔をそちらに向けた。

 視線に気づいたのか、秀平も梨緒子のほうを振り向いた。

 黙ったまま数秒。その時間が永遠に続く気がした。


 いま、ここで。はっきり言ってもいいのだろうか。


 ――『秀平くんと一緒に』ってことが、重要だってことを。


 秀平が隣に座って、じっと見ている。


 いま。

 いま、なのかもしれない。


 いましかない、のかもしれない。


 梨緒子がなけなしの勇気を振り絞り、思わず口を開きかけた、その時――。

 秀平が、予想外の反応をした。


「江波……ちょっとそのまま動かないでいて」


 肩が触れてくる。そして秀平の左手が、梨緒子の顔のすぐ側まで近づいてくる。


「な、な、なに? あっ……」


 梨緒子は体育館の壁に張り付くようにして、身じろぎもせず、呼吸をするのも忘れたまま――。


「シャトルの羽根の切れ端が、江波の髪にからまってた。ほら」


 顔から火が出そうだった。軽く肩が触れただけでも、心臓の鼓動が追いつかないというのに。


「あ……ありが、とう」

「さっき頭で羽根、受けてたからだよな。さすがだな、梨緒子先生」


 秀平がさり気なく軽口を叩いた。


 ――りっ、……梨緒子先生?


 馬鹿にされているのだ、きっと。

 でも。それよりも。

 彼がふざけて自分の下の名前を呼んだことに、梨緒子は動揺しまくっていた。

 『江波』と、いつも苗字で呼ぶ彼が。

 初めて『梨緒子』と、口にした。たとえそれが、軽いおふざけであったとしても。

 逆に、彼が自分に対してくだけた喋り方をしたことが、梨緒子には嬉しいやら恥ずかしいやら――もうすでに頭の中はパニック状態だ。


 ――ええっと、こういうときは、どう切り返したらいいの?


 傍らに座り動揺しまくる少女の気持ちなど、まるでお構いなしに、秀平は物憂げに自分の指先を擦り合わせている。


「なんか……女の子の髪の毛って、手触りが違う」


 初めてその事実に気づいたかのように、孤高の王子様は言う。

 まるで無垢な子供が学習していく過程のようだ。


 ――完全、ノックダウン。もう、ダメだ……私。


 気のきいた切り返しの言葉など、完全に脳みそから吹っ飛んでしまった。

 勇気を振り絞って体当たりする前に、梨緒子自身が壊れてしまいそうだ――。



 ふと気づくと、コートを取り囲む空気が淀んでいる。二人に向けられた嫉妬の目。奇異の眼差し。おびただしい数の視線が突き刺さる。

 隣に座って話をするばかりか、成り行きとはいえ、秀平が梨緒子の髪を撫でるようにして触れたこと。

 それが多くの女子生徒のヒガみやネタみをかってしまったらしい。

 心無い言葉が、梨緒子にはっきり聞こえるように囁かれる。当然それは、隣に座る秀平にも聞こえているはずだ。


「俺のせいなのかな、江波まで責められてるの。……随分と目の敵にされてるんだな、俺」


「ええ? ……正反対だと思うけど」


 秀平の言葉は、ふざけているとしか思えなかった。

 そうでなければ、きっと秀平が気をつかって、さり気なくなだめようとしているのだ、と梨緒子は思った。

 しかし、秀平の表情は憂いに満ちている。孤高の王子様は梨緒子の目の前で、自虐的なため息をひとつ、ついてみせた。


「そんな、江波に慰めてもらわなくても、平気だから。陰口には慣れてる」


「かっ、……陰口?」


 梨緒子の声が、思わず裏返った。

 孤高の王子様とあがめられてる人間には、まるで相応しくないセリフだ。


「女子が俺のこと遠くからゴソゴソ言ってるのは、何となく気づいてる」


 返す言葉も見つからない。

 そのゴソゴソは確実に陰口なんかではなく、黄色い囁きに違いない。


「江波だって、この間までそうだっただろ?」


「ええ? ……それって、真面目に言ってる?」


「みんな話しかけづらそうにして、腫れ物にでも触れるかのように腰が引けてるし、俺のこと怖いのか……どもっているヤツも一杯いる」


 目の前の光景が、梨緒子には信じられなかった。

 どこをどう曲解したら、こんなふうに思い込めるのだろうか。


「なんか、疲れるんだ――ひとりでいるほうがずっと落ち着く」


 それがいっそう『孤高』と呼ばれる原因となって、どことなく神秘的な魅力につながり、憧れる女子は遠巻きに秀平を眺め、そして騒ぎ立てる。


「でも、江波は普通だから、なんか――楽だけど」


 ふと。

 その言葉を、以前にも言われたような気がした。


【――江波って、なんか普通なのな】


 梨緒子がそれを言われたときは、『普通』という言葉の意図するところを掴みかねていた。けれど、いま秀平が言ったことと合わせ考えてみると――。

 秀平の『普通』は、彼にとっての『特別』だということに気づかされた。


「それにさ……兄貴から聞いたよ。何となくだけど」


「優作先生に? …………な……何を?」


「うちの学校の、ジンクスってやつを」


 ――何だ、そのことか。


 一気に力が抜けてしまった。まさか自分の気持ちを、すでに秀平に言ってしまったのではないかと、焦ってしまった。

 しかし。

 胸を撫で下ろしたのもつかの間。ふと、重要なことに気づいてしまう。


 ――ん? 待って……うちの学校のジンクス? って、まさか!


「しゅっ、秀平くん、……あのはちまきの持つ意味、分かったの?」


 すっかり、油断していた。

 はちまきのジンクスなど秀平には通じない、と諦めてしまっていたのだ。

 確かに昨日、梨緒子は家庭教師の優作に、学校のジンクスを話してきかせた。


 ――女の子は好きな男の子に、手作りのはちまきを……って、優作先生、言っちゃった?


 優作は、梨緒子の気持ちをそのまま話したわけではないのだろう。

 けれど、そういうジンクスがあるということを弟に話して聞かせたのなら、完全に本人にバレている。

 そこでようやく、自分に対する秀平の態度ががらりと変わった理由が、梨緒子には分かったのだった。


「驚いた――かなり」


「そう……だよね。驚くよね。秀平くんだって、困っちゃうよね」


「いや、江波がいま突然、大声出したから驚いたんだよ。そんなに大きい声、出さなくても」


 どうもつかみどころのない受け答えをする。

 しかし、決してふざけているわけではないらしい。

 あくまで表情は涼しく、梨緒子が見とれてしまうほどの端整な面持ちだ。


 聞きたい。聞きたくない。怖い。もしかして。いや、そんなはずない。


 秀平は、淡々と言葉を紡ぎ出す。


「兄貴からそれ聞いてさ、なんか俺――」


 秀平の続く言葉を遮るようにして、二人の間に遠くから大声で邪魔が入った。


「リオ! リオ! いまのちゃんと見てたかよ?」


 そこには、熱戦繰り広げられているコートの中から叫ぶ、一人の男子生徒の勇姿が――。


「スゴくね? 俺、かなりカッコよかっただろ?」


 ラケットを大袈裟に振り回し、類は鼻血を出しながら活躍をアピールしている。

 類少年のファインプレーのお陰で、梨緒子は肝心な秀平の気持ちを聞き逃した。

 そして、空を仰ぐような秀平の微かなため息が、梨緒子の耳にもはっきりと聞こえた。

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