球技大会(4)

 試合開始まであと五分と迫った。練習タイムも終了である。

 各クラスごとに、選手と応援要員がそれぞれの陣地へ集合する。

 いよいよだ。


 秀平はラケットで器用に床上のシャトルをすくい上げ、そのまま梨緒子に近づいてきた。そして空いている左手をゆっくりと差し出してくる。


「ラケット寄越して。返してくるから」


 自然だ。彼の発するたった一言が、梨緒子の気持ちを幸せにさせてくれる。

 自分のために、彼が何かをしてくれる――それだけで梨緒子は、二人が特別な関係になれたような錯覚さえ覚えた。

 秀平のひたいには、うっすらと汗が光っている。


「あ、秀平くん、ちょっと待って」


 応援用のうちわと一緒にしてコート脇に置いてあったフェイスタオルを、梨緒子は急いで取りに行き、ラケットの面に載せるようにして秀平に差し出した。


「これ、よかったら使って」


 ラケットを返すついでに、さりげなく渡そうとした。

 しかし。


「……江波のだろ、それ」


 秀平は差し出されたタオルをじっと、不思議そうに見つめている。

 いままでの秀平とのやり取りで、彼の反応は充分予想できた。しかし、素直に受け取ることはしないと思っていたが、その態度は予想以上に頑なだ。


「秀平くん、もう汗かいてるから」


「江波が俺を走り回らせてくれたから――運動不足だな、俺。タオルは、いい。遠慮しておく。俺が使ったら、江波が使えなくなるだろ」


 どうやら秀平は、真面目に言っているらしい。

 そうやって冷静に喋りながらも、反応を探るようにしてくる秀平が、梨緒子はおかしくてしょうがなかった。


「いいよー、別にそんなの気にしなくても」


 そんな二人のやり取りの横で――。

 類が聞き耳をたてて、こちらの様子をうかがっている。ウォーミングアップのはずの練習ではしゃぎすぎたのか、滝のような汗がひたいから頬へと滴っている。


「……安藤の方が、もっとタオルが必要みたいだけど?」


 秀平が余計なひとことを言った。

 もちろん、類がそれを聞き逃すはずはない。


「そうだな、じゃあ遠慮なく。リオ、ちょっと借りるぞ」


「え? あ、うん……」


 類は梨緒子のタオルを勢いよく広げると、汗だく状態の顔と首を隅々まで拭った。

 そして、使ったそれを、梨緒子の顔面にぎゅうっと押し付ける。


「さあ、アイドルの汗が染み込んだタオルだ! 喜べ、リオ!」


「わーっ、もうやだルイくん、やめてよー」


 類はふざけてちょっかいを出してくる。梨緒子をからかうのが楽しくてしょうがないようだ。


「何言ってるんだよ、コンサート会場だったらこれ、取り合いだぜ? ルイさまの汗の染み込んだタオルよ! 私これ一生洗わない! ってな」


 梨緒子は美月とは違い、類を上手くあしらえない。結局のところ、簡単に丸め込まれてしまうのだ。


「アイドルだって、汗くさいのは汗くさいでしょ? もう、気ぃ失っちゃうよー」


「この汗くささが、男のフェロモンってやつだ? 目眩がするほどいい香りだろうがー」


 ふと、気づくと。

 秀平が白けきった表情で、梨緒子と類のやりとりを眺めていた。


「ラケット、返してくる」


 くるりと向けられた秀平の背中が、いつも以上にクールだ。


 どうも秀平は類のことが苦手のようだ。

 相容れぬ人種なのか、あるいは――。



「ちょっとそこのフェロモン馬鹿。梨緒ちゃんから離れて、こっち来なさい」


 ルイはジャージの背中を美月に引っ張られ、引きずられるようにして体育館の壁際に連行された。


「ルイ、あんたねえ……」


「なんか俺、めっちゃ火ぃついてんの」


 類は美月に自虐的な笑みを見せた。


「リオが永瀬のことが好きなのは知ってるよ。だから? それがどうした? 大人しく身を引けってか?」


「分かってるんじゃないの、ちゃんと。だったら――」


 美月の言葉を途中で遮るようにして、類は割り込んだ。


「あのさ、美月。俺の答えは『ノー』だから。お前もさ、親友思いなのは結構だけど、幼馴染の俺の気持ちも少しは察してくれ。な?」


「どこまでも鈍感なルイさんに気持ちを察しろだなんて……言われたくないんですけどー」


「何言ってんだ。こんな硝子のハートを持つ繊細な少年つかまえて、鈍感とか言うなよ。…………まあ確かに、お前は両側から挟まれて辛い思い、してるんだよな。だったら、リオを説得して、永瀬のことを諦めさせろって。そうすれば楽になるぞー?」


「……楽になるわけないでしょ、馬鹿ルイ」


 いつものように、類と美月がじゃれあうような言い合いを始めている。梨緒子はそれを、少し離れたところでぼうっと眺めていた。

 辺りの喧騒にかき消され、はっきりとその内容は聞こえてこない。


 ――やっぱり幼馴染だと、気心知れてて楽しそうだな。扱いも上手いし……。


 類の汗が染み込んだタオルを、ため息をつきながら折り畳んでいると、梨緒子の耳に届くように、陰口ともとれる囁きが聞こえてきた。

 それも、一人や二人ではない。



【何、あのタオル。すっかり彼女気取りじゃん】


【3Aの子から聞いたんだけどさ、永瀬くんがあの女のこと名指ししたんだって】


【どういうこと?】


【ええ? ショックじゃない? 永瀬秀平ともあろう男が、あんなツマんない女のこと? 冗談でしょ】


【本人は満更でもないんでしょ。あー、やだやだ、身の程知らず】





【ほら、あの女。ルイ先輩のこと、もてあそんでるんだって】


【うそ、サイテー】


【ルイ先輩、可哀想】


【何なのムカつく、あのちょー勘違い女】



 耳を塞いでしまいたい。

 しかし、そんな不自然なマネしたら、もっとひどい目に遭わされそうな気がしたため、梨緒子はひたすら聞こえていないフリをした。

 どうしてここまで言われなくてはいけないのだろうか。切なすぎる。


 類をもてあそんでいる――――だなんて。

 もちろん、梨緒子にそんなつもりはまったくない。

 類とは仲のいい友達だ。類は誰にでもあのような調子なのだから――。


【……安藤は本当に江波のことが好きなんだな】


 先ほど秀平に言われたばかりの言葉が、梨緒子の脳裏をよぎっていく。

 確かにそうなのかもしれない。それは梨緒子も理解する。

 しかし。

 類からはっきりと告白されたことはないのだ。

 何かしらちょっかいを出してきて、気に入られているのは分かるが――しかし、それ以上のことは何もない。

 いまの梨緒子には、『類は仲のいい男友達』としか言えないのである。

 それに類は、梨緒子が誰のことを想っているのか、唯一知っている男子なのだ。


 ――難しい。


 だから類は、はっきり言わないのかもしれない。言えないのかもしれない。そして、秀平にもやんわりと絡むのかもしれない。

 それを秀平は――類に嫌がらせをされていると、思ってしまうのだ、きっと。


 抜けられぬ悪循環の中で、梨緒子も類も秀平も。

 身動きがとれず、もがくことすらできずにいる。


 確かにタオルはやりすぎだったかも――とっさに秀平にとってしまった行動に対して、梨緒子は自己嫌悪に陥ってしまった。

 そしてあらためて、秀平の人気の凄さを身をもって思い知らされた。

 梨緒子にもよく分からないのだ。どうやって秀平と距離を縮めることができたかなんて――たまたま、頼んだ家庭教師が秀平の実の兄だった。たったそれだけのことなのだ。

 それがきっかけで、誰もが手を触れられずにいた聖域に、運良く入り込んでしまっていた――しかし、そんな理由が、秀平の数多のファンたちに、到底通じるはずもない。

 自分が秀平に対してどういう態度をとるのがベストなのか、梨緒子は迷い始めていた。

 さらに踏み込むべきか、距離を置くべきか――。



 類にお灸をすえた美月が、ようやく梨緒子の元へ戻ってきた。

 美月にも耳障りな陰口が聞こえていたらしい。彼女が周囲に軽く睨みをきかせると、梨緒子一人のときとは見違えるようにして、悪意のこもった囁きが急速に収まっていく。

 しかし、これでは先が思いやられる――梨緒子は深々とため息をついた。


「やっぱり、組み合わせをもう一回変えてもらう。これ以上私と組んでたら、秀平くんにも迷惑がかかっちゃう、きっと」


「いまさら何、怖気づいてるのよ、梨緒ちゃん!」


 ひたむきなまでの美月の眼差しに、梨緒子は思わず目を瞠った。

 優しくなだめられて、同情してくれるものだとばかり思っていたのだが――親友はいつになく力強く凛とした声で、梨緒子を叱咤した。


「これまでどれだけ勇気を出したと思ってるの? 永瀬くんはいま、手を差し伸べようかどうか迷ってる。梨緒ちゃんはルイじゃなく、永瀬くんのことだけを見てればいいの! これを逃したら一生後悔するよ?」


「美月ちゃん……」


「好きな人にだったら、少しくらい迷惑かけられたってなんてことないんだから! いい? こんなチャンス、2度はないからね?」


 親友の言葉に心が揺らぎ、梨緒子はごくりと唾を飲み込んだ。

 ラケットを返し終えた秀平が、再びこちらへ近づいてくるのを、梨緒子はしっかりとその両目で確認する。


 恋する乙女の心臓は、もはや壊れる寸前――。

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