球技大会(3)
秀平が、前田の代役でバドミントンに急遽出場する。
それだけでも、驚きと途惑いを隠せずにいるというのに、梨緒子とペアを組むことが決まっている類に、ペアチェンジまで条件に出すとは――。
どうして秀平がそんなことを言い出したのか、その理由は誰にも分からない。
場の空気が、凍りついている。
そして、渦中の梨緒子もすくんでしまい、まったく身動き取れない状態だ。
沈黙を破るようにして、秀平が口を開く。
「五チーム中、三チーム先取の団体戦だから、上手いヤツを組み合わせて優先的に出したほうがいい」
なるほど、と誰かが相づちを打つように呟いた。
勝つための作戦だ、と解釈したらしい。
「だから、俺と江波が五番手、ということで」
そう秀平が付け加えると、それまで黙っていたバドミントンチームの生徒も納得し、頷き合った。
もちろん、この少年を除いて。
「……ホントにそういう理由か?」
類が猜疑心全開の顔で、秀平に問う。そして、意味ありげに傍らの梨緒子をちらりと見た。
怖い。重苦しい雰囲気が漂う。
秀平はあくまで冷静だ。類の態度に臆することなく、はっきりと言い切った。
「俺、バドミントンはそんなに得意じゃないから。安藤は、俺と江波が組むことに反対なのか?」
普段物静かな秀平が、今日はやけに挑戦的だ。キリリとした眼差しをしっかりと類に向けている。
二の句を継がせぬその勢いに、類はひるんだ。やがて、深々とため息をつくと、肩をすくめた。
「別に……反対ってことではないけどさ。分かったよ、じゃあ俺、佐藤さんとだな。よろしくー」
前田と組むことになっていた女子に、類は友好的な笑顔をみせた。
一方の秀平は、梨緒子を振り返ることもせず、クラスメイトの人並みをかき分けるようにして、そのまま教室を出て行った。
クラス内に再び喧騒が戻った。
梨緒子はバレーボールチームの輪の中にいた美月へ慌てて近づき、教室の隅へと引っ張った。
もう、作戦会議どころではない。思考能力の限界をとっくに超えてしまっている。
「美月ちゃん、いまの……何? 何だったと思う?」
「こっちが聞きたいよ。梨緒ちゃん、永瀬くんと何かあったの?」
美月も状況が把握できていないようだ。
ふと見ると。
類がバドミントンチームの輪の中から、梨緒子と美月の様子を窺うようにして見ている。
「何かあったって言われたら、……特に何もないんだけど」
交錯する、いろいろな想い。
「一瞬、永瀬くんって梨緒ちゃんのこと、本当に好きなんじゃないかって……思っちゃった」
美月のひと言が、梨緒子に衝撃を与えた。
呼吸するのも忘れてしまう。苦しい、心臓が――。
――そんなの、現実に起こりえない夢の話。そうに決まってる。
第一、秀平はさっき、そんなことはひと言も言っていなかった、はず。
梨緒子は動揺をなんとか抑えようと、いましがたの出来事を必死にたぐり寄せる。
「いや、ほら! 一番下手な子と組みたいってことだったんでしょ! だから五番手でって……自分で言っちゃうと、ちょっとへこむけど」
「ええ? 梨緒ちゃん、本気にしてるの? あれはどう見たって永瀬くんのパフォーマンスでしょ。さっそくジンクスの効果ありってトコ? 梨緒ちゃんのはちまき、永瀬くん受け取ったんでしょ?」
「うん……一応は。でも肝心のジンクスの意味、秀平くん知らないみたいだし」
秀平が梨緒子のはちまきをつけてくれる見込みは、ゼロに近いのだ。まかり間違ってつけたとしても、その返事が返ってくる可能性は皆無である。
「それにしても、類があんな顔見せるなんて、驚いたな……ちょっとうらやましかったりして」
「うらやましい? うとましい、じゃなくて?」
梨緒子のツッコミに、美月は軽く笑いながら答えた。
「どっちも似たようなもんだよ、きっと」
バドミントンの会場は第一体育館だ。
もうすでに八面分のネットが張られている。試合開始まであと三十分ほど。各クラスとも、練習に余念が無い。
梨緒子のクラスは第一試合だ。一番奥の8番コートである。
出場選手や出番のない応援の生徒が、すでにコートの脇をぐるりと取り囲んでいる。
「おせーぞ、リオ! やる気出せー」
一番手の類が、コートの中から梨緒子に向かってラケットを振っている。テンションは充分上がっているらしい。
「だって、五番手だから。ルイくん、決めちゃって! カッコよく! ね?」
「当たり前だろ? あとでルイ様の活躍を、ちゃーんと見とけよ」
「うん。応援してるから」
梨緒子の言葉に、類は元気よく親指を立ててみせた。
――ええと、問題は、ここから……なんだよね。
梨緒子は辺りを見回した。
目的の人物は、体育館の壁にもたれかかるようにして、腕組みしながら、物憂げにたたずんでいた。
どうやら秀平は、梨緒子がコートにやって来たときからずっと見ていたらしい。すぐに目が合う。
梨緒子は引き寄せられるようにして、秀平に近づいた。
一歩、また一歩。どんどん心臓の鼓動が早まっていく。
彼の側までたどり着くと、梨緒子は特に声をかけることもせず、そのまま秀平に並ぶようにして壁に背を向けて立った。
すると。
隣で、秀平が呟くように言った。
「……安藤は本当に江波のことが好きなんだな」
「べ、別にそんなことないと思うけど。ルイくんは誰にでもあんな調子だから」
「そうか」
いったい、何が言いたいのだろう。
どうして秀平は、こんなにも類のことを勘繰るようなことを言ってくるのだろうか。
【その子が、自分以外の男に言い寄られているのが気に入らなくて、逆に八つ当たりしたり――】
梨緒子の脳裏に、昨日の家庭教師の言葉が蘇ってくる。
――まさか、そんな。
「江波は安藤のこと、友達だって言ってたけどさ」
とっさに、右隣のほうを振り向くと。
秀平の切れ長の二つの瞳が、梨緒子の顔を見下ろしている。
逃れられない。
「仲いいんだろう? どうして付き合わないの」
類とのやりとりを冷やかすわけでもなく、かといって頑なに否定する梨緒子のことを責めるわけでもなく。
試されてるのかもしれない。はっきり言わないと、きっとこの少年には伝わらない。
しかし。
はちまきのジンクスにかけるのが、梨緒子は精一杯だったのだ。
目の前の秀平は、やはりクラスで配布されたピンク色のはちまきをしている。梨緒子が手渡した水色のはちまきは、どこにも見当たらない。
「どうして……って、言われても」
――それは、秀平くんのことが好きだからに決まってるじゃない。
「ひょっとして、迷惑だった?」
「え? 何が?」
「無理矢理、江波をとったこと」
「と、と、とった……て?」
意味が分からない。
まだまだ上手く距離がつかめない。慣れていないのだ。
「……江波が安藤と組みたかったのなら俺、ただのおせっかいなヤツだな」
「おせっかいだなんて……そんなことないよ」
「だったら、よかった」
秀平のどこかホッとしたような表情が、梨緒子の心をかき乱した。
「江波、ちょっとここで待ってて」
「え? あ、うん」
そう言って、秀平はどこかへ駆けていく。そしてすぐに、どこからかラケットと羽根を借りて戻ってきた。おそらく体育用具室にある学校の備品だろう。
「一緒に練習しよう、江波」
――う、うそ?
コートはもう一杯だ。
壁際のわずかなスペースを利用して、二人は適当な距離をとるようにして、ゆっくりと離れた。
秀平は得意じゃないと言っていたが、そのようなことはまったくなかった。もともと持っている運動神経が、人より優れているのだろう。
梨緒子が飛ばす滅茶苦茶なコントロールの難しい返球も、涼しい顔でラケットを振り、また打ちやすいところへ返してくる。
すぐ目の前に、動く秀平がいる。
シャトルなんか、目に入らない。
このままでは試合どころではない。梨緒子がそう思ったそばから。
真上に返ってきた絶好の球を、梨緒子は派手に空振りした。シャトルは重力に逆らわずに、梨緒子の頭上にポトリと落ちてバウンドし、床へと落ちた。
秀平が笑った。端正な顔を穏やかに緩ませている。
「ははは。江波、さすがにそれは返せないな。はは、ははは」
「あイタタ。……ちょっと秀平くん、笑いすぎ」
頭のてっぺんをさすりつつ、梨緒子は目の前の光景に驚いていた。
こんなふうに声を上げて笑う秀平を、梨緒子はほとんど見たことがなかったのだ。
いつもクールで表情をあまり変えず、静かに微笑んでみせるだけだった。それだけで梨緒子は目がハートマークになって飛び出さんばかりだった。
しかし、いま。
自分の運動音痴ぶりを見て笑われている――複雑だ。
でも、その自然な空気。
彼が梨緒子にだけ見せている和やかな笑顔。
梨緒子は、秀平にとっての「特別な地位」にたどり着けそうな手ごたえを感じていた。
いままで誰も踏み越えることのできなかった境界線が、すぐそこにある。
孤高という名の壁の内側から、彼がこちらに手を差し伸べている――そんな錯覚さえ感じていた。
――錯覚でもいい。いま、この瞬間だけは。
秀平がラケットを手前に振ってみせた。練習再開を要求しているようだ。
梨緒子は慌ててシャトルを拾い、それを左手にを持ちながら、ラケットを持つ右手をぐるぐると大きく振り回す。
「いくよー、秀平くん」
秀平はジャージの前ポケットに左手をつっこんだ状態で、梨緒子に半ば背中を向けるようにして立っている。その余裕っぷりが小憎らしい。
「いつでもどこにでも、どうぞ」
ふと気づくと、遠巻きにギャラリーの人垣ができていた。梨緒子と秀平は注目されている。
――ううっ……何だかもの凄く、視線が痛い……。
秀平が特定の女子と楽しげにスポーツをする姿を公の場で見せるのは、おそらく初めだろう。
孤高の王子様に恋焦がれる女子は、山のようにいるのだ。
その嫉妬心をいっせいに浴び、梨緒子はいたたまれない気持ちになってしまった。
もちろん、秀平はその心中を察するはずもなく――。
そしてその人垣の中には、こんな幼馴染の二人も混じっている。
安藤類少年は胸のところで両手をしっかりと組み、祈りのポーズを見せている。
「前田のじいちゃんが奇跡的な回復力をみせて、いますぐ永瀬の出番がなくなりますように。それか、いますぐ嵐が来て、これから学校が臨時休校になりますように。お願い、神様」
「ルイ、あんた、重症……」
恋の神様が平等でないことは、この悩める少年の幼馴染の少女・美月が、誰よりも一番よく知っている。
ここに、深い深いため息が、二つ――。
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