球技大会(2)
突然、秀平の態度が硬化してしまい、その美しくも冷たい眼差しが向けられると、梨緒子はいたたまれなくなってしまった。
こうなることは充分予想できたはずだった。
誰からのはちまきも受け取らなかった秀平が、自分が作ったものを受け取ってくれるはずはなかったのだ。
家庭教師の優作の力で、少しずつ自分に好意的になっているというおごりが、梨緒子の心のどこかにあった。
逆の見方をすれば。
梨緒子が、自分の兄が家庭教師をしている先の人間だから、邪険に扱わないようにしている、それだけのことだったのかもしれないのに、である。
「……ごめんなさい。迷惑だったよね」
哀しいという感覚が麻痺している。
もう、涙も出てこない。
急いでしまおうと、はちまきの上に梨緒子が手を伸ばすと――。
差し出した梨緒子の手に、突然、秀平の左の手が重ねられた。
あまりのショックに、梨緒子は口がきけなくなってしまった。
手を急いで引っ込めようとする。
が、しかし。秀平ははちまきごと梨緒子の右手をしっかり掴んで、放そうとはしなかった。
秀平の手の温もりが伝わってくる。大きくて骨っぽくて、――男の子の手だ。
「……いや。誰かに渡して欲しいってことなのかと思って、聞いただけだよ。クラスのはピンク色だって……そう、聞いてたから」
思わぬ彼の反応に、梨緒子はすっかり取り乱してしまっていた。
向こうも途惑っているようだ。いきなり手を掴んでみたものの、引っ込みがつかなくなったらしい。怖々と梨緒子の手を放し、そっとはちまきだけを抜き取っていく。
梨緒子は掴まれていた手を、慌てて引っ込めた。
冷静を装うも、なかなか上手くいかない。
梨緒子の右手に、秀平の左手の感触が残っている。
しばらくの間、沈黙が二人を包んだ。
――とりあえず、受け取ってくれた……んだよね?
秀平は問題集の開いたページの上に梨緒子が作ったはちまきを置き、じっと眺めている。
「これって、なんか意味があるの?」
「……え?」
「知らない人がよく持ってくるんだけど、俺、よく意味分かんないんだ。……話もしたことない人間にわざわざ理由聞くのも、アレだし。だからいつも、いらないって言ってるんだけど」
「……まさか秀平くん、うちの学校のジンクス、知らないってこと、……ないよね?」
「ジンクス? …………これが?」
秀平の驚く様が、逆に梨緒子を驚かせた。
孤高の王子様は、整った切れ長の瞳を何度も瞬かせ、はちまきと梨緒子の顔を交互に見つめている。
「たまに二本してるやつは見かけるけど、この江波がいまくれたのも、そのジンクスってヤツなの?」
秀平がいままで誰のはちまきも受け取らなかったのは、そのジンクスの存在自体を知らなかったから、だなんて。
天晴れというか、お粗末というか――なんと言えばいいのか、まるで上手い言葉が見つからない。
「もういいの。帰るね、邪魔してゴメンなさい」
秀平はそれ以上何も言わなかった。そのまま逃げるようにして図書室を去る梨緒子を、追いかけてくることもない。
梨緒子は気分が晴れぬまま、家庭教師の待つ自宅へと足を向けた。
ついつい、この家庭教師の男にもやもやをぶつけてしまう。
優作は梨緒子のすべてを受け入れてくれるのだ。上手くかわしているだけなのかもしれないが――。
そこは大人だ。伊達に梨緒子よりも人生長く生きていない。そしてなんといっても、憧れの『彼』を誰よりもよく知っている男、である。
今日も勉強そっちのけでしゃべりまくる梨緒子の話を、優作は楽しそうに聞いている。
「面白いジンクスだね、それ」
「やっぱりうちの学校だけなのかな。優作先生って高校どこ?」
「魁星」
「え? カイセイてあの、全寮制の厳しい男子校?」
初めてその経歴を知り、梨緒子は改めて尊敬してしまった。
魁星高校といえば県下イチの私立の進学校だ。医学部にストレートで合格というのも、充分納得できるくらいのインテリジェンス集団である。しかし、梨緒子の持つ魁星高校の人間のイメージと目の前の家庭教師は、決してイコールで結びつかない。
「そうそう。女の子いないから、そういうときめくようなジンクスなんてなかったなあ」
優作はくたびれたようなため息をついた。あごの無精ひげを撫でながら、たれ目を緩ませて、しょげたように笑ってみせている。
インテリジェンス集団のイメージからは程遠い――梨緒子は優作につられて笑いながら、そんなことを考えた。
「しかしまあ、三年にもなって学校のジンクスも知らないなんて、秀平のヤツも協調性なさすぎだな。仲のいい友達の話なんて聞いたこともないし、ましてや好きな子がいるとかそういう話題は論外だし」
孤高の王子様。
でも本当は、そんなことはなく――。
「きっと秀平は、どうしていいか分からないんだよ」
「……やっぱり、迷惑だってこと?」
「すぐそういうふうに考えるのは、梨緒子ちゃんの悪いところだね」
――そんなこと、言われたって。
「この前も言ったけど、初めてなんだよ秀平は」
心臓の鼓動が、ひときわ高鳴った。
【僕ね、あんな秀平初めて見たんだよね】
聞きたくない。
でも聞きたい。
やっぱり聞きたくない。
「ちゃんと女の子の下の名前を覚えたり、自分から無言電話かけてワンギリしたり、自分から話しかけようとして昇降口で待ち伏せしたり、その子が自分以外の男に言い寄られているのが気に入らなくて、逆に八つ当たりしたり――」
優作の言葉一つ一つが、梨緒子の胸に突き刺さる。そして、そのときの秀平とのやり取りが、梨緒子の脳裏に鮮明に浮かび上がってくる。
「ルイくんは私をからかってるだけで、言い寄ってるわけじゃないもん。私が秀平くんのこと好きだって知ってて、わざとちょっかい出してるんだから。それに…………ホントに気に入らないだけかもしれないでしょ?」
「いやいやいやいや」
優作は大袈裟に首を横に振った。
「気に入らないなら、関係を持たないために極力近づかないようにするから、あいつは」
分からない。
永瀬秀平という人間が、分からない――。
「だから、梨緒子ちゃんはすごい、って。お兄さんはそう思ったわけよ」
優作が自分のことを「お兄さん」と茶化して言うと、とてつもない気恥ずかしさに包まれる。
梨緒子のことを生徒としてではなく、自分の弟に想いを寄せる一人の女の子として見ている――そう思わせるからだ。
「でも、何で自分がそうしているのか、秀平は分かっていないんだよ。きっとね」
優作の言葉が、どこか遠くから聞こえてくる。
これからどうなっていくのだろう――とりあえず言えるのは、はちまきのジンクスで秀平と付き合えることは絶対にない、ということだ。
それどころか、このままでは。
二人が付き合える日がこの先、永久に訪れることはないのかもしれない――そんな不安が梨緒子の心を苦しめた。
翌日。
とうとう、校内球技大会の初日を迎えた。
バドミントンに出場予定の男子四人、女子五人が、朝イチで教室の一角に集まり、類少年を中心に作戦会議をすることになったのだが――。
「前田のヤツ、じいちゃん危篤だから休むって? どうすんだよ」
出場することになっていた男子生徒の一人が、突然欠席となってしまったのである。
梨緒子は類の隣で、とりあえず話の輪に加わっていた。
「誰かが二回出るってのも、きついよなー。俺らと日程がぶつかってない競技のやつ、誰か探すしかねえよな」
そのときだった。
すでにジャージに着替え、すぐそばの席に座っていた一人の男子が、バドミントンチームに声をかけた。
「俺、出てもいいよ。バスケ、午後からだし」
梨緒子は思わず自分の耳を疑った。
この声の主は――ひょっとして。
類は提案してきた男子生徒のほうへと視線を向けた。
「ホントか? 永瀬」
クラス内にいた全ての生徒が、きっと同じことを思っただろう――珍しい秀平の行動に、皆が注目する。
もちろん、それは決して奇異の目ではなく、期待と羨望の眼差しだ。秀平が出場すればきっと上位入賞を狙える、そんな希望が胸を膨らます。
「ただ、条件が一つ――」
「おお、なんだよ? 言ってみ」
「江波と組ませて欲しいんだけど。つまり、安藤とペアチェンジ、ということで」
嘘。
嘘だ。
――何を言い出すんだろう、秀平くん。
「永瀬、お前……何のつもりだ!?」
類は眉をひそめ、秀平を牽制する。しかし、秀平も挑発的な態度を崩そうとはしない。
梨緒子は突然自分が渦中の人となってしまい、ただ途惑うばかりだ。
――誰か。誰でもいい。嘘だと言ってほしい……。
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