新学期(7)

 煙草の匂いがする。

 きっと、優作のシャツに染み付いているのだろう。

 テーブルを挟んで向かい合って座っている優作は、近くもなく遠くもない。

 彼が動くたびに香る煙草の匂いは、不思議と不快ではなかった。


「秀平とは、仲直りできた?」


 このどことなく冴えない風貌の家庭教師は、人なつっこいたれ目をさらに穏やかに緩ませている。そして自分の弟と教え子の梨緒子のことを、さりげなく気にかけているようだ。


「仲直りだなんて……もともと仲良かったわけじゃないけど」


 秀平に言われたとおり、数学の課題を復習している最中である。復習用にコピーしておいた分を取り出し、最初から解き始めた。

 優作は暇そうにしながら、じっと梨緒子の手元を見つめている。


「優作先生、秀平くんに何か言ったの」


 梨緒子は考えるフリをしながら、冷静を装って優作に尋ねた。

 きっとこの家庭教師にはすべてが見えているはずだった。


 わずかな間があった。

 優作は言葉を選んでいる。


「いや、別に。……でも」


「でも?」


「僕ね、あんな秀平初めて見たんだよね」


 優作のそのひと言で、梨緒子の頭の中は一瞬にして真っ白になった。

 もちろん、問題を解く手も止まり――。


「すごいね、梨緒子ちゃん」


 優作の声がどこか遠くから聞こえている。


 優作の言う『あんな秀平』とは。

 怒ってた?

 呆れてた?

 軽蔑して……た?


 『すごい』って、――いったい何が?


 そうじゃないかもしれない。でも、そうかもしれない。

 思い当たることは一杯、ある。


 梨緒子は怖くて、とても真実を聞く気にはなれなかった。



「梨緒子ちゃん、行きたい学科はそろそろ決まったかな?」


「行きたい……学科……」


 第一志望は、北海道大学。

 学科どころか、学部すら決まっていない状態だ。

 とりあえず理系。いま言えるのはそれだけだった。

 理学部。農学部。獣医学部。医学部。その他には何があったか――受験生の情報収集能力としては、梨緒子のそれはあまりに頼りない。


「もちろん梨緒子ちゃんの気持ちも分かっているし、理由が何であれ、それが勉強しようという意欲に繋がるんであれば、僕はそれでいいと思うんだよ。ただね、僕が手伝えるのは大学に合格させることまでだから」


 何をしたいのか、分からない。

 少しでも秀平の側にいたい。

 永瀬秀平の存在を近くで感じていたい。


 しかし、それは――梨緒子の一方的な願いにすぎない。


「大学に合格することがゴールではないからね。むしろスタートなんだから」


 優作は正論を言う。先生たちの言葉よりも説得力がある。

 当然だ。この家庭教師は、現役の大学生なのである。

 いままさに、自分の道を模索するべく勉学にいそしんでいる『学生』だ。


「秀平くんは……どこを目指してるの?」


「さあね。学科までは分からない。まあ、おおよその見当はついているけどね。梨緒子ちゃん、あいつに聞いてみたら?」


「そんな、いきなり聞けないよ」


 秀平とは、友達という関係ですらないのである。その点、優作と秀平は同じ屋根の下に住む兄弟なのだから、ずっとずっと近しい存在だ。


 ――本当に、本当に、うらやましい。



「ねえ、優作先生」


「なに?」


「優作先生はどうして医学部を目指そうと思ったの?」


「え……僕?」


 優作は突然質問の矛先が自分に向けられて、驚いたようだ。幾度も瞬きを繰り返す。


「だって、おうちが病院ってわけでもないんでしょ?」


 優作に聞いてみたのは、梨緒子のちょっとした好奇心だった。

 はっきりと目的意識を持って大学を受けようとしている人は、おそらく半分以下だろう。

 現在の梨緒子のように、何をやりたいのか分からないけど、とりあえず親が進学を希望しているから受験勉強をしている――なんとなく。

 そう。

 なんとなく、とりあえず、勉強しているにすぎない。

 しかし、優作は医学部だ。目的はかなり限られているはずである。


 質問を投げかけられた優作は、腕組みをし、ううむと唸っている。

 そして、ようやく出した答えは――。


「テレビドラマの影響かなあ」


「ええ? …………真面目に?」


 梨緒子は思わず呆気にとられてしまった。

 信じられない。しかし優作の表情からすると、決して冗談というわけではないらしい。


「きっかけなんて、そんなものだよ」


 別に万人が納得するような理由を求めていたわけではなかったが、優作の答えは梨緒子の思考をはるかに超えていた。


 ――ドラマ? ってことは、二十四時間密着型のドキュメンタリー番組みたいなんじゃないんだよね……?


 真っ先に梨緒子の脳裏を過ったのは、大物俳優がズラリとキャスティングされた群像劇だった。


「ドラマって、あれ? 大勢の医者引き連れて病院内を回診して歩くやつ」


「ああ、あれは壮観だよね。うちの大学の付属病院でも、たまに見かけるよ」


「でもねー、優作先生が威張ってるところ、なんか想像できないー」


 梨緒子はテレビドラマの俳優の顔を優作に置き換えて、一人吹き出した。

 優作は苦笑している。


「ドラマって、そっちじゃないよ。他にも有名なのあるだろう?」


「ちょっとドジで可愛い新米ナースたちにいじられる青年医師みたいなの? で、ベテランの医者差し置いて、人気独占! みたいな」


「ええ? そういえばそんなものあったなあ。でもね、うちの講座の先輩が言ってたけど、あんなに粒はそろってないらしいよ」


 優作の説明はすべて自分の実体験に基づいている。もちろん梨緒子の知らない世界の話だ。ちょっとした裏話を聞けて、得した気分にさせられる。


 ――同じ兄弟なのに、不思議。


 優作と話していても、まるで緊張しない。

 もちろんそれは梨緒子が相手に対して抱いている気持ちの違いでもあるのだが、それだけではないはず。


「あんな綺麗な看護師たちに囲まれてたら、人気を一人占めしたくなるなあ、確かに」


 ふと香る煙草の匂いと、緩やかな雰囲気。

 この目の前の家庭教師に、秀平と同じ血が流れているなんて――。

 梨緒子はそんなことを考えながら、優作のテレビドラマ妄想談義に耳を傾けていた。

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