新学期(6)
明け方から雨が降っている。
薄ら寒い。
五月雨というのだろうか、それとも梅雨なのか。
梨緒子は雨の日の朝が嫌いだった。
どんなにブローしても決まらない髪。
じっとりと太ももに張り付くスカート。
「送ってってやろうか?」
兄の薫が言った。この人はくせ知らずのまっすぐで美しい黒髪を持っている。羨ましい限りだ。どこから見ても『美人さん』である。
最近、自動車の普通免許を取得したばかり。中古で買った車には黄色と緑の若葉マークがしっかりと貼り付けられている。
「ええ? それは……相当ハイリスクハイリターンな賭けだよね」
「その代わり、七時過ぎにはウチ出るからな」
「なんで? 学校八時半からなんだけど」
薫は専門学校生だ。梨緒子よりも更に始まる時間が遅いはずなのだが……。
兄の答えは単純明快だった。
「登校中の学生轢いてもいいわけ? うち、もう実名出ちゃう歳なんだからな? いいじゃん、図書館で時間でもつぶしてろよ。確か、朝は七時半から開いてるだろ」
三つ年上の薫は、梨緒子と同じ高校だった。ちょうど入れ替わりで卒業している。必然的に、梨緒子の高校の内部事情に詳しかった。
梨緒子が学校の図書館に足を踏み入れたのは、今日で二度目だった。
そもそも、図書館で何かをするという習慣がないのだ。
本の匂いがする。当たり前のことのようだが、それは梨緒子の想像以上だった。
受付カウンターに人の姿はない。奥の図書準備室のドアが半分開いている。完全な無人ではないようだ。
柔らかな雨の音。
梨緒子はカウンターの前を素通りし、書架の奥の閲覧スペースへと足を向けた。
窓に沿うようにして机と椅子が備え付けられている。
机の上にカバンを置き、何気なく左右を確認すると――。
呼吸が止まった。
秀平がいた。
こんな時間から、問題集らしきものを広げ、淡々とノートに書き付けている。
この場からすぐに逃げ出してしまいたかった。しかしこの状況では、人込みに紛れて逃げるようなこともできない。
いまこの図書館には、秀平と梨緒子の二人だけ。担当教師は奥の図書準備室に引っ込んでいる。
なによりも。
おそらく彼も、誰かがやってきたことは物音で分かっているはずだ。
どうしたらよいのか分からずにその場で立ち尽くしていると、梨緒子の気配を察知したのか――秀平が気まぐれに顔を上げ、こちらを振り向いた。
閲覧スペースの両端に二人はいる。その距離およそ、十メートル。
明らかに意識している。
驚いているようだ。
「江波?」
秀平が、梨緒子の名を呼んだ。
とりあえず向こうから話しかけてくれたことで、梨緒子は少しだけ気が楽になった。
しかし、特に話すこともない。とりあえず同級生としての社交辞令を交わす。
「ごめん。邪魔しないから。お兄ちゃんが送ってくれて、早く着いちゃって、それであの」
すると秀平は、持っていたシャープペンをノートの真ん中に置いた。そして、梨緒子の言葉を遮るようにして、疑問口調で答える。
「いつも江波は俺に謝ってる。どうして?」
どうして、なんて。返答に困ることばかり言う。
社交辞令ではすまされない、嘘も妥協もないまっすぐな言葉。
つい最近知ったことだ。手の届かない存在だった秀平と、こうやって言葉を交わすようになって――どんどん彼のイメージが変わっていく。
「それは、私が秀平くんの気に障るようなことをしてるみたい、だから」
秀平は隣の椅子を引き、座面をポンと軽く叩いてみせた。どうやら隣の席を勧められているらしい。
梨緒子は一瞬途惑った。
だが確かに、お互い端と端にいて話すのも不自然だ。
彼に近づく梨緒子の足音も、心臓の鼓動も、すべて雨音にかき消される。
「この間のことなら別にいいんだ。……というか、そういうつもりじゃなかったんだけど。安藤が俺に突っかかってきたからって、それを江波のせいにするのはおかしい、よな」
この間の昇降口での一件を言っているのだろう。
梨緒子は、秀平が引いてくれた椅子に腰を下ろした。カバンを脇に寄せるようにして置く。
「言いにくかったんだ、安藤に。あのお気楽な性格じゃ、どうせ真剣に取り合ってくれないだろうし」
「……そうかもね」
すぐに同意できてしまうところが、なんだか悲しい。
「俺、そんなにとっつきにくいかな」
「秀平くんは何でもできるからみんなの憧れの存在なの。だから、一目置いてるっていうか、そんな感じ」
「憧れ? ……なんだよそれ」
秀平はきっと、自分が回りからどう思われているか、ちゃんと理解していないのだ。
――こんなにも、恵まれてるのに。
北大志望の、しかも合格確実と言われているほど優秀で。
精悍で美しい容姿の持ち主で。
落ち着き払った物腰と、冷静な立ち居振る舞いで。
しかし、それもこれも、本人にとってはおそらく、どうでもいいこと。
秀平は再びシャープペンを取ると、問題集のページをめくった。
横から覗くと、小難しい数式の羅列が見えた。どうやら物理の問題集らしい。秀平は迷うことなく、解答の計算式をノートに書き付けている。
梨緒子は勉強する気などなかったが、秀平の手前ボーっとしているわけにもいかず、カバンから数学の参考書を取り出した。
しばらくの間、二人は雨音の喧騒に包まれる。
「江波って、なんか普通なのな」
「……え。う、うん。否定はしないけど」
秀平がどういうつもりで言っているのか――梨緒子はその言葉の意図するところを掴みかねていた。
「江波とは三年になるまで、全然話したことなかったよな」
「そうだね」
「でも、兄貴のせいで、やたらと江波に詳しくなった」
「え……なに、なんかヘンなこと言いふらしてたりして? んもう、優作先生ってば」
おそらく、優作は自分の弟に恋する梨緒子の気持ちをくみ取って、気をきかせているのだろう。確かにそのお陰で、秀平とわずかに距離が縮まったのは事実である。
「俺、安藤の気持ち、分からなくもない……かな……って」
梨緒子の動きが完全に、止まった。
――いま、すごいことをさらりと言われた気がする。……安藤の、気持ちって、この間の?
【でも、安藤はそうは思ってないみたいだけど?】
昇降口で言われた秀平のセリフが、梨緒子の脳裏をよぎった。
類が自分のことをどう思っているかは、さておいて。
少なくとも、この目の前の孤高の王子様は、安藤類少年が梨緒子のことを特別に好きだ、と思っているのは確実だ。
その秀平が、類の気持ちを「分からなくもない」――だなんて。
梨緒子は一人妄想を膨らませ、完全に取り乱してしまう。
その場を取り繕うように、梨緒子はあわててノートに挟み込まれたプリントを取り出して、机の上に広げた。
「え、いや、あの、ああっ! そうだ。課題まだ途中だったんだ。昨日、優作先生に聞きそびれちゃって」
課題のプリントは半分しか埋まっていなかった。授業は午後なので、昼休みに類か美月に写させてもらおうと思っていたのである。
秀平はその空白だらけのプリントをちらりと横目で見て、淡々と言った。
「一時限と四時限、授業交換だって掲示ボードに書いてあったけど」
「え……うそ?」
類も美月もいつもギリギリに登校してくる。
それから写させてもらうとなると、まったく時間が足りない。
「たぶん、合ってる」
横から差し出されたのは、秀平のものだった。
梨緒子は驚いた。
まさか秀平が自分の課題を他人に見せるとは、思ってもみなかったからである。
「もちろん、写しっぱなしじゃ駄目だ。返却されたら、ちゃんと復習する、という条件で」
手が震える。自分がちゃんと文字を写し取れているのかどうかも怪しい。
秀平はもう自分の世界に入っている。
どのくらい時間が経ったのだろう。
「江波、もう時間だけど」
秀平に声をかけられ、梨緒子は慌てて広げていたプリントらや参考書らや筆記用具やらをかき集めた。
秀平は無言で手を差し出した。課題のプリントを返してほしいということなのだろう。
梨緒子が慌てて返すと、秀平は片手に持っていたバインダーにそれを器用に挟み、振り返ることなく書架の合間を通り抜け、図書館を出て行ってしまった。
――――疲れた。
課題を提出する段階で梨緒子は青ざめた。
梨緒子がノートに挟んでいた課題のプリントには、永瀬秀平としっかり記名されていたのである。
――や、やばい。私ってば、なんてそそっかしいの……。
急に手を差し出されて緊張してしまい、きちんと確認しないまま、なんと自分のプリントのほうを渡してしまったのである。
しかも、まだ名前も書いていなかった気がするが――いや、気のせいではない。
秀平は廊下側の真ん中に座っている。梨緒子は窓側だ。
――どうしよう。これ、どうしよう。
梨緒子は秀平のプリントを握り締め、ひとり焦っていた。
そのときである。
秀平がようやく気づいたのか、一瞬だけ、梨緒子のほうをちらりと見た。
しかし、それ以上のリアクションはなく、シャープペンで何かを走り書きしたような仕草をした。
――もしかして秀平くん、私の名前を? でも……。
下の名を漢字でちゃんと書けるのか、はなはだ疑問だった。
一時限目の終わった休み時間、いつものように教室を出てどこかへ行こうとする秀平を、梨緒子は慌てて掴まえた。
「あの、さっきの課題なんだけど、あの、私のプリント」
「ああ……名前、書いておいた」
「…………下の名前、ちゃんと書けた?」
秀平は途惑ったようなため息をつき、ヒトコト。
「当たり前だろ」
冷たくも優しいその言葉が、梨緒子の心の中の梅雨空を、見事に吹き飛ばした。
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