ビブリオテカ・ハアトコロリン・ステヱシヨン

シシャモヶ腹汁子

第1話

 ぼくの一日はこの黴臭い、番台の畳なんかとっくにずる剥けてる古書店でなんなんとなく過ぎていくのだ。先代の店主は実のじいちゃんで、前の前の夏にぽっくり逝った。それからはぼくがじいちゃんの代わりに、空いた殻を被る宿借りみたいにすっぽりとここに収まっている。



……暇だ。あちい。



 壁に小説、床に図版、天井には……さすがにないけど、その近くまで不安定な知識の塔が乱立している。



 こんなの、うら若い乙女が押し込められていい処じゃねえよ。誰だよこんなところにぼくを押し込めたんはよぉ、あっそっか、自分だったわはへへ、参りやしたねこりゃどうも、なんて一人芝居にもならん脳内駄弁りをぶっていると、立て付けの悪い戸を引いて、店内に這入ってくる影がひとつ。



 客だ。珍しい。ぼくがこの店の主になってからというもの、本はほとんど売れてない。客が来ない日だってあるし。路に迷ったジジババと、猫のほうが数えたら多いんじゃなかろか。数えないけど。めんどくせ。



 そのおっさんは、ここらの人じゃないみたいだった。茶色の山高帽に、同じ色のジャケットとズボン。極めつけはぶっといフレームの瓶底眼鏡。なんだか二、三十年前の人って感じで、この店に似合っていた。つまり、変だった。



 おっさんは狭い店内をうろうろ、ふらふらと廻っていたが、ふとこっちに気づいたみたいで驚きやがった。



 なんだ、小せえから本に埋もれて見えなかったってか。きっと睨んでやると、安堵したようににへらと笑いながら寄って来た。愈々変質者のウタガイが濃厚。



「いやはや、店員さんがおられたとは。失礼失礼。これは可愛いお嬢さんだ。留守番ですか?」



 猫撫で声。ぼくのキライな人種だ。ぼくをガキだと勘違いするやつの典型的な例。そのシュッとしたツラ、どうぶっとばしてやろか。左斜め後ろの搭の天辺には『純粋理性批判』捌百陸拾参ぺヱジ、もしかは文机の側に、『失われた時を求めて』全七巻(未完)、その他よりどりみどりの鈍器たちにぼくはすぐに手が届くのだ。それをこいつはわかっているのかな。しかしいやいや、まてよ。殴っちゃうのはイケナイ。成人女性が未成年にちょっとくらい間違えられたからって、即ち鈍器で殴打というのはそれこそ子供じみた振舞いと云えないだろか。よしよし、ここは騙されたと思って、このままガキの振りをしてやろう。騙されたと思って、騙してやろう。(?)



「うん、ソーナノ。おじさん、さがしもの?」



「いや、ええと……。あっ、もしかしてきみ、姥屋さんのお孫さんですか? もさもさした癖っ毛がよく似ている」



「ああん? てめー云いやがったなっ、ぼくこれ気にしてんだぞっ。雨の日は脹れるし、絡むし」



 先の企みはどこへやら、気づけばソッコウでおっさんにガンくれてしまっていた。



 とはいえ短くせずに伸ばしているのは元はと云えば、じいちゃんが自分の癖毛と一緒だ一緒だと頻りに嬉しそうにしていたからで、なんとなくってだけだ。つまりは切ろうとすれば切れるのだ。切ってないだけで。だから、ジコセキニンなんだろけどさ。



 そこらへんの葛藤もオマケに付けて睨んでやったんだけど、ポカンとしたあと、またおっさんはへらっと笑って、こりゃ失礼、と素直に云う。こんな小娘に喧嘩売られておいて、全く腹を立てた様子もない。このおっさん、やっぱり螺子が幾つか飛んでるな。



「……あーそーですよ。ぼくが孫ですけど。何か?」



 答えると、ぱっと顔を輝かせる。



「そうですか! いやね、私、稀覯本を専門に仕入れを請けておりまして。姥屋さんに頼まれていた本が見つかったものですから、こうして参った次第なんですよ」



「それ、何年前」



「頼まれたのがですか? ええと……七年、八年……? 忘れてしまいました。十年は経ってなかろうと思いますが」



「じいちゃんは、二年前に亡くなりました」



 云うと、さすがにのほほんとした顔は止めて、黙りやがった。それから何かを思い返すようにして、ちょっとの間、目許を険しくしていた。



「……それは、御愁傷様でした」



「別に。その、満足だったと思うんで。お気を落とさず」



 なんでぼくが慰めてんだろうか。



 ぐずん、と鼻を軽く啜って一区切りつけた様子のおっさんは、懐から一冊の本を取り出した。



「失礼。良くして頂いたものですから。これが、頼まれていた本です。……遅すぎましたね」



 その和綴じの本は、ぼくの読めない字で書かれていた。どんなタイトルかなんて、訊く気もない。またぞろ積もり積もって見えない処ではもはや腐葉土になりつつあるんじゃないかとうたぐってしまうよな諸書物の、これも一冊になるというだけの話だった。 



 しょーじきここにある黴くせー図書どもなんて、全部燃やしてやったっていいのだ。どうせこれまで誰も読まなかったんだ、これからも読まれなかったからといって、どってことないはずだ。……さすがに悲しいからしないけど。



 一応受け取って、適当に美術関連の棚に抛りこんでおく。平積みの可淡人形写真集の上に着地し、ぼわっと埃が舞った。



「んだよぅ、おっさん。ここの店主はぼくなんだぞ。何か文句でもあるんか、お?」



 じっと見ていたので取り敢えず威圧。どこまで強気に出たらコイツが怒り出すのか、少しからかってやろっかなって。でもおっさんは「まさかぁ」とか云ってまたへらへらりと笑っている。信じてねえな? まだぼくのこと、子供だと思い違いしてやんだ。



 ……クソ、気に入らん。



「おっさんさー、も用事終わったんしょ? 早よ帰れば」



 諦めて帰らすことにした。メンドイメンドイ。はよーバハハイしてしまおー。



「はは、それもそうなんですがね。じつは今日の仕事はもう終わったんですよ。だから今の僕は只の客というわけです。折角だから、も少し色々見せて頂けませんか。それとも、ここは主が代わってから、客を追い返すようなひどい書店になってしまいましたか」



 ぐうう。意外と口が回りやがる。……確かにぼくだっていちおう店を任されたぷらいどってもんがある。あと情も。どっちも猫の額みたいなもんだけれど。それに草葉の陰からげんこつが飛んできたらたまったもんじゃない。



「……ご自由にドーゾ」



 それを聴くやいなやおっさんはまたへらぁと笑い、店内の徘徊を再開した。あちこちの棚で足を止めて、本を抜き出しては頁を捲っている。……あ、あそこは大判の画集だ。あっちは国内外の文学を集めた一角。



 意外と(こざかしいことに)おっさんの本を繰る手つきが優雅だったと、認めねばなるまい。ただずっと見ているのも癪だ。こんなときは本だ本。なんせ此処には腐るほどあるんだから。閉じていた『ふたりのロッテ』を開いて、読み始める。



 暫くしてふと気配を感じたから、顔を上げた。気づけばあたしの目の前におっさんがにこにこしながら立っていた。



「なっ、なんだよっ、びっくりしたなあっ」



「失礼。ずいぶんと真剣にお読みでしたから、邪魔しては悪いと」



 それでじっと見てたってのかよ。その方が相手方に与える羞恥ダメヱジがでかいと何故わからんのか。



「……で、何? もう帰るの?」



「先程からおじょうさん、私を帰らそうとばかりして……。そうではないですよ。一通り拝見させて頂きましたので、残るはあなたの城たるそこの一画だけという訳です」



「遠慮って言葉、知ってる?」



「もちろん。遠くの事を思い巡らす、つまり心の距離が遠いほど相手の懐へ這入りその心に近づいてみよという意味でしょう。中国の故事に端を発するという」



 このおっさんの言動、当に此れをうわ言と云い、また戯れ言と云うべし。正しい語源なんて知らんが、こいつがぼくをおちょくっているということだけは判る。



「それに、次にいつ来られるかわかりませんからね。……ちょっと後ろの棚のそれを……失礼」



「いやいやぼくが取っちゃるよ。おっさん無理すんな」



 どれだよ、と訊こうとして振り向いたら、ものすごい近くに男の顔があった。



「わッ!」



「危ない!」



 視界がぐるんっと回った。



 気づけばぼくはおっさんに覆い被さられていた。何故だかは全然わからんが。



 ほこりがもうもうと舞う。



「……大丈夫ですか」



「ちょっと、いきなりレディになにしてんだっ……! ぼくこれでも」



 大声を出してやろうかと思ったとき、辺りに散乱した書籍の惨澹たる有り様に気がつく。天井まであったはずの塔が見当たらない。てことは。



 長年の横着で歪に積み上がった鈍器のような図書たちが、冬山よろしく一息に雪崩れたのだ。でもぼくにケガはない。つまり、非常に癪だが、こいつに庇われてしまったわけだった。



「大事ないですね」



 眼鏡がどこかにぶっとんでしまったようだ。こうして見ると存外に若く見える。痛そうな素振りを全く見せずに気の抜けた笑いをつくるこいつが、無性に腹立たしかった。



「……どこも痛くないよ。助けていただいてどうも有難うござんした。……はよどけ! おっさん」



 八つ当たりのように云ってしまってもまた、へらっと笑って応じる。……んだよそれ。余計ぼくが子供みたいだ。



 おっさんは自分から立って、ぼくの手を引っ張ってくれた。立ち上がれたのはいいけど、勢い余っておっさんに抱き留められる。



「おいっ、変態! 訴えるぞこのっ」



 その一瞬、



「さっきの」耳許で妖しく囁く。「焦った顔も可愛かったですよ」



 おっさんは身を離して、ぱんぱんと埃を払い、そのまま踵を返して帰っていった。出しなに「では楼さん、また来ます」と云って。



 ゆっくりと身を起こして、しばらくは呆けていた。なんだ。いま何をされたんだぼくは。いや何もされてない。云われただけ。ていうか「も」ってなに。



 ぐるぐるぐるぐる頭が白熱して、まともな意識が戻ったのはやつの姿が消えて、たっぷり壱分は経ってからだった。



「って、ぼくの名前知ってんじゃんかっ!!」



 やっぱり初っから揶揄ってやがったんだあんにゃろう! くそくそくそ。下履きをつっかけて表へ出る。息を荒げつつ見回してみるけれど、見通しの良くない路地裏には、人の気配は既になかった。



 もうすぐ終る夏の、夕暮れの風が頬を冷ます。



「あんのくそったれセクハラやろー……」



 はぁ。もーいいや。ぼくの敗けで。なんか疲れた。訳の判らぬ憔悴を抱えて、宿借りは貝殻の中へと帰らせて頂きます。



 愛しきぼくの城こと番台。そこに辿り着こうというまさにその時、何時もならするりと抜けられる隘路で、何もないのに、いや、その日だけは『床』に躓いたと云うのがよかろう。ぼくはすってんころりんした。



 盛大にすっころぶ際、幾つも周りの塔を道連れにした。ははっ、さすがは自分だと褒めてやりたいぜ。転けるにしても美学があるのだ。



 受身を取る余裕もなく、再び本と埃が舞いとんだ。



「う"あっ」



 その内の一つが、胯間にクリーンヒット。重い衝撃が身体じゅうを突き抜けた。



「~~~~~!!!!!!」



 多分泪が出てた。歯を食い縛り、足をゴキジェット喰らった虫よろしく縮めて悶絶する。──これが永遠と同じ時間だけ続いた──。



 ……なんとか自我と人間性を取り戻した頃、店内は静かだった。もう事此処に至っては心は疲弊を通り越している。一冊一冊を拾い上げ、片付けていく。我が胯間に慈悲のない一撃を加えてきたであろう奴も、腿の近くに落ちていた。



「……島崎藤村全集」



 気品あるケースに収められた物騒なシロモノだ。ぼくが片手で持つと手首が持っていかれそうになる。



 ふと、ここには『初恋』が入っているんだったな、なんていらんことを思い出す。確かじいちゃんのお気に入りの一つ。



 ケースから出しそうになる手を慌てて止める。あぶないあぶない。こうやって作業の手が止まるんだから。いまは掃除だ掃除。



 頑張って片付けて、いつも拭かないところもちょっと拭いたりなんかして、終わった頃には日が暮れかかっていた。



 電灯を付けて薄暗い店内を照らす。



「はぁ~。終わった。まったくきょーは散々だ……」



 ふと、番台の奥に見馴れないものを見た気がした。寄って拾い上げてみると、男物の眼鏡だった。



「……」



 唐突に先刻のことが鮮やかに脳裏によみがえる。



 ごつごつした、男の人の手。意外に綺麗だった膚。肺腑にまで透るような言葉。それでいて、野生の獣の唸声じみた粗暴さがあった。



 妙な落ち着かなさ。てことはあいつ、また来るだろな。眼鏡を取りに。



 あのへらへらした物腰を思うとたまらなく気が重かった。



「……胯間にシップって、どう貼ればいいんだろ」



 わかんねーっ。半ばやけくそ気味に、ぼくは救急箱を探し始めたのだった。




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