神大芸術の魁
言うまでもないが、森羅万象で「芸術」が創造することが許されているのは人間だけである。その他の動物や植物、自然事象なども、その形態や風景などが人間の目から見ると芸術に見えることは多々あるが、それらをここが意識して創造したわけではない。
例えば孔雀の羽は素晴らしい美術作品のように見えるが、それは人間の目にそう見えるだけで、孔雀は意識して自分の羽をあのように彩色したわけではない。
人間のみが『神』の芸術をのぞき見することができ、それを自分で意識して再表現することもできる。
『神』の計画、プランでは、肉体のある神の子である人類に神界の写し絵、地上天国をこのように顕現させようという『神』の大芸術の大いなるプログラムこそが神意なのである。
物質世界のことは、『神』も「神々」も直接に手を下すことはできない。「地上組織」で中也も「人の子を遣りたる相対の世界には神自らも相対性以外を行うとも見せられず」と言っている。
物質という相対の世界においては、絶対的なる『神』はその絶対性を発揮されてはおられるが、相対的なヒトには知覚できないということだ。
そして芸術家は、否、職業としての芸術家ではなく、その魂の本質が中也の分類による「芸術人」ならば、本人が自覚しているかしていないかは別として、『神』の芸術をこの世で顕現する大いなる任務を持って生まれてきた魂といえば言い過ぎだろうか。
しかし、前にも引用したが、中也は言う、「芸術とは、神の模倣である」と。
そして、自ら「芸術家」であるとはっきりと主張した中也である。彼ほどはっきりと実在の『神』を認識していた芸術家は、ほかにはあまり例を見ない。
昭和2年に河上徹太郎に宛てた書簡の中で、彼ははっきりと言っている。
――僕はあらゆる血液の歴史をエデンの園に還したいのです。パスカルの「神聖」よりも一つ高次の「神聖」が尚地球には可能だと信ずるのです――。
『神』大芸術の成就する天国文明の顕現とは「人類エデンの園への復帰復活」に他ならない。そこを目指すと明言した中也は、やはり「神大芸術の魁」の詩人と言えるのではないだろうか。
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