第5章 幸福は厩の中

宗教詩人から『神』詩人へ

 さて、中也が宗教詩人であることはたくさんの人が指摘している。

 中也が認識していた神は観念上の「神」ではなく、厳としてお在します実在の『神』であるということも述べた。中也はこのように実在神を認識していたのだから、中也をして「キリスト教的」とか「浄土真宗派の詩人」とかとは絶対に言えないのである。なぜなら、実在神は宗教を超越しているからだ。

 中也はあれほど『神』を求め、『神』を身近に見ていたにもかかわらず、どの宗教にも入信しなかった。

 中也自身も「我が詩観」で「神は信じたが宗教家という人間仕事の一様式にも吸引を感じなく、さりとて神学者にもなりたいと思わず」と言っているが、それは彼が信じた『神』が絶対的真理の『神』であるいい証拠だ。

 中也自身の認識がそこまで到達していたかどうかは分からないが、その近いところまでは認識していたはずである。だから彼は『神』は信じても、宗教なるものを「人間仕様の一様式」ととらえて吸引されなかったのだろう。それでいて、宗教を超越した『神』を信じていたので、総ての宗教に敵対的ではなかったのだろう。教会へ行っては教えを請い、同時に仏教書も呼んでいた形跡があるからだ。

 宗教が「人間仕様の一様式」と彼が言うのは、あまりにも今の宗教には『神』の教えに人知の解釈が加わり過ぎていると感じたからではないだろうか。だからこそ、特定の宗教に全面的にかかわらなかったのではないかと思われる。

 しかし、「純粋にカトリック的というよりは、より自由な汎神論的な宗教意識のように思われる」というようなことを述べる研究家もおられる。それはそれで正しいが、「汎神論的な宗教意識」というのが引っかかる。

 中也の『神』意識が宗教を超越していることは、再三述べてきた。私も最初は方便で「宗教性」などという言葉を使ってきたが、宗教が「宗門宗派の教え」という意味ならば、中也が「宗教詩人」というのは当たらない。あえて言うなら「神詩人」とも言うべきだ。

 中也の芸術の根底にあったのは宗教ではなく、『神』への信仰そのものだったからだ。いや、同じ「」でも、ったことをぐ「信仰」ではなく、かう「神向しんこう」だったのだろう。

 宗教は今や分化対立し、そればかりではなく、人類の文化が分化分裂、対立と抗争を繰り返して進んできた。しかし今や、それを統合帰一する新しい時代に入りつつあるように感じられる。

 早くも中也はそれを察知し、『詩に関する話』に次のように記す。


――自己分析がなされることはそれが必然的である限り結構な状態であるが、その分析の結果が、直ちに行為に移らないで、その分析過程の記録慾となる時悲惨である。/その記録慾は、分析が繊細であればある程強いものでもあろうが、その慾は昂ずれば、やがて事物から自己を隔離することになる。尠くとも理論と事実とが余り対立して、人格の分裂となる。(中略)蓋し、すべて分析過程の保留を願ったり、抽象欲過剰だったり、感覚的断面に執着したりすることは、実行家的精神であって、芸術家精神ではない――。


 分化対立――分析の世は終わり、統合の世が間もなく訪れる……それは芸術によってである……このことを中也は、天才的直で知っていたのではないだろうか。

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