信仰の本質
中也は信仰については、「信仰というものは、おそらく根本的には『永遠』の想見可能能力」と、昭和10年11月21日の日記に書いている。
つまり『神』が永遠であること、魂の不滅をいかに認識するかだ。中也はその能力を天才だけのものとし、能才にはないという。何かしらの天恵によってのみ、つまり天意にして能才などの人知では測り知れぬものということになろう。
キリストは『神』のみ
これらは天才にしか見えぬということだから、中也が「地上組織」で言った「無機的要素」というのはこういうことも入るのであろう。
だから「生活人」が「有機的要素」のみを認識している間は絶望しか生まれ得ない。しかし、「永遠」の認識、中也が昭和3年に著した「生と歌」にある中也の言葉で言えば「認識し得る能力」であり、「その能力の拡充するものは希望なんだ」ということである。
そして「生と歌」でそのあとに続く部分に中也の信仰態度が現れている。
――寧ろ一切を棄てよう! 愚痴っぽい観察が不可ないんだ。(中略)行えよ! その中に全てがある。その中に芸術上の諸形式を超えて、生命の叫びを歌う能力がある――。
既往の概念を一切白紙にしたところに、信仰の要道の素直さが生じる。理論理屈は信仰の敵だ。屁理屈や不平不満はだめだ。ただ、実践あるのみ。その実践が詩人にとっては詩であり、それが生命の叫びとなる。中也が言いたかったのは、そのようなことだろう。だから前にも引用した昭和10年11月21日の日記にある「能才の著述とは、おつとめであり、/天才のそれは、必至のことである」ということになるのだろう。
中也の人間価値は、その前年の昭和9年の日記には「A is A が熱情を以って云えること」とあるが、つまりは「神は在る」、「神は善意の神だ」、「そしてそれは愛である」、それらのことを素直に直観し、それを已むに已まれぬ情として、必至のこととして著述する。
しっかりと「永遠」を認識した上で、そしてそれらが「生命の叫び」となった時、詩となる。中也の詩をこういったプロセスの産物としてとらえるのは、信仰者に限ったことだろうか。
そして、『神』を認識することは、「愚痴っぽい観察」を棄て去った純粋さ、素直さから生ずる。昭和2年4月21日の日記で中也は言う。「私は再び嬰児だ。書物はあまり縁遠い。けれども私は嬰児のように生々している」
素直とは、赤子の次元に還ることだ。脳毒、学毒、世間毒に毒される前の赤子に。そうしてはじめて『神』が見えてくる。だから中也も「一切を棄てよう」と言うのだ。
前にも名前が出た評論家で随筆家の吉田秀和が昭和37年に『文芸』に寄稿した「中原中也のこと」の一部を引用しよう。
――けれども中原には、その「直さ」が必ずしも、単純にそこにある、といったものでもなかった。いつだったかも、彼は阿部さん(筆者中;ドイツ文学者の阿部六郎)の家で、「ああ、俺は赤ン坊になっちゃった!」と叫びながら、急に畳の上に仰向けにひっくりかえってしまって、亀の子みたいに、手足をばたばたさせていた。(中略)中原は、しかし、そうなったままずいぶん長くいた。正気の沙汰じゃないといえば、それまでだが、私は今でもやっぱり、彼はあの時、本当に赤ん坊になってしまったのだと思っている――。
イエス・キリストも言う。「誰も子供のような心のものでなければ、天国へは入れない(『新約聖書』「マタイによる福音書」第18章-3)」。
そして中也の昭和2年5月8日の日記、
――愛とは、「人の好い」ことだ/そしてすべては愛から生れる――
子供の心とは、「人が好い」ということではないだろうか。そして、中也はそれが「愛」であるとし、すべて「愛」から生まれるという。そしてそれが、天国へ入る条件、すなわち『神』を見ることなのだ。
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