在りて有るもの

 次に中也の芸術論の到達点ともいうべき「我が詩観」に一気に飛ぶ。

 なぜこの評論を到達点というのかについてだが、中也の死ぬ前年に書かれたという時間的なものもある。しかし、それだけでいうのなら、中也としては死ぬ直前まで鎌倉から故郷の山口へ帰る計画を立てていたくらいだから、自分が翌年に死ぬ、すでに人生の終わりだなどということを意識していたわけではない以上、根拠としては弱い。やはり、彼自身がこの「我が詩観」という文章の最初の方で、「もともと死ぬまでに一度は是非とも書きたいと年来の希望があった」と言っているように、彼の中で一つの結論として下した詩観が、この評論ではないかと思われるのであえて到達点という。

 ただ、現実問題として翌年彼は死ぬのだから、「死ぬまで一度は」という彼の思いは、かろうじて間に合ったわけである。

 しかし時間的には、この詩観は「今より十三年ばかり前」、すなわち中也が17~8歳のころには「大体の決着を見た」と中也自身が言っている。17~8歳といえば、先の「地上組織」とほぼ同じ頃のことだ。だが、29歳の中也が、17~8歳の頃に考えていたことを、自分の詩観としてそのまま発表するということもあるまい。やはりこれは、29歳時点での中也の声と思ってよいだろう。

 またこの評論の主旨を、「主観的な抒情詩の背後に、いかなる具合に客観的能力が働いているかを示すこと」と中也は言う。

 一見したところ「我が詩観」は、とりわけ「神が在る」というところは彼の直観に根ざしているのだから、主観的な文と思われがちだが、実は違う。それは「神が在る」という動かしがたい客観的な事実に基づくのだし、そのことを直観した中也が論を展開しているからだ。


 「我が詩観」では長い前置きが終わると、いきなり「神は在るか」の問題に突入する。

 まず『神』について中也は、「考えること」がいかにしたら可能であるか、その根源を「神」と名付けたらどうかと提案する。これは決して中也が『神』をそのように定義していたということではなく、『神』が見えないものに対する一種の説得だろう。ただ、中也自身の『神』の認識の出発点であった可能性もある。

 「日本に於て『神』を何故に厭う者があるのであるか?」――神国日本を悪い方に誇示して敗戦を迎えた忌まわしい思い出のあり、また雨後の筍のようにあやしいカルト宗教が林立する現代人は別として、中也の当時としてはたしかに『神』を厭う必要は日本人にはなかった。むしろ、日本の伝統的概念では、『神』と人は一体の存在であった。

 それに対してユダヤ教などでは、『神』と人との間に一線を画す。そして中也の言葉では、「宗教裁判のあの過酷」や「神自体よりも神を祀る人間習俗の中に屡々不幸を招来したことがあった」歴史があったりして、西洋では「神」を厭うものがあっても仕方がないとする。それは、「神」と人が別のものだからだ。

 中也はさらに、「『運命』を、どうして神と呼んでは不可ないのか」と論を展開する。これもまた上記と同じことである。

 さて、中也の場合、神を直観するのは「事象物象に神秘を感ずるから」という。そして中也が直観したのも、それは言うまでもなく「神は在る」ということに他ならない。昭和2年6月21日の日記で、彼はこう記す。


――神様が在るとは神様が在るということだ。/神様がないとは神様があるなしの議論に関わらず――「私の心は……」ということだ。――


 『神』が「在る」ということは『神』の本質そのものであって、その客観性に基づいて中也は「神はある」と言う。その客観性の前では、「神はない」というのは主観になってしまう。

 「神がある」というのが『神』の本質であることは、『旧約聖書』の「出エジプト記」でも「神」を「在りて有るもの」と表現し、この存在性がユダヤ教における「神」の御名の「ヤハエ」の語源ともなっている。(「ヤハエ」の語源には別の由来もあるが、ここでは割愛する)。すなわち、「りてるもの」とは「厳として実する力光」である。その「有力」の「力」とは、それこそ中也が見た「事象物象の神秘」ではないだろうか。

 この世のものは一切が、「神」のみ手によらずして創られたものはないという実感、大自然の精巧な仕組みは、総てが至れり尽くせりの妙智の世界である。その驚きこそが、中也をして『神』を直観させたのであろう。「神秘」については、彼はこうも述べる。


――工場が運転するためには、先ず発明家が制作品の設計を渡さねばならぬ。設計が生ずるためには、最初は唯盲目的意欲とも見える発明家の意志がなければならぬ。その意志を、発明家は神秘とも感じようではないか?――


 つまり、工場は人間界、制作品が人間を含む森羅万象で、設計はその霊成型ひながたである。そして発明家は『神』に他ならない。『神』の「智・情・意」こそが、最大の神秘である。


 そして次にその『神』の在りようだが、中也はそれをずばり「善意」だと言う。


――善意というものがあって然る後神が在るのではなく、神という一切の根源が在る「在り様」こそ善意である筈だからである。――


 こう言った後、「ここらをもっと厳密な言葉で書くに書けないこともないが、私は読者の頭を信用したい」と中也は続けるが、読者はどうも中也の期待を裏切ったようである。

 『神』が善意であることは、『旧約聖書』の「創世記」で「神」が天地を創造された際、「神」はその被造物をご覧になって「良しとされた」とあることからも明白だ。

 たしかに中也の言う通り、「神の悪意の仕業事」も(傍点ママ)ある。病気や不幸現象などがそれだが、それらすべて「帰する所は、あの路この路を径た(ママ)上での善意の国である筈」だという。

 つまりは一切が神大愛から発する魂の罪穢のクリーニング現象であり、また神鍛えなのである。つまり「一切がよくなるための変化」である。

 こうして「神はあって、しかも善意の神である」と中也は記すが、それについては「我が詩観」に至る前も随所で論じられている。

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