吾は歌わん
前にも述べたが、「地上組織」は大正14年、中也が18歳の時に大学受験に失敗し、予備校通いの浪人生として、同棲中だった長谷川泰子とともに京都から上京してきた年のものだ。
この評論で中也は諸現象を「有機体(的要素)」と「無機的現象(的要素)」に大別する。そして「私は全ての有機体の上に、無数に溢れる無機的現象を見る」と、彼は冒頭で宣言する。
字面を言えば、有機体とはいわゆる生命体で、炭素化合物含有物であり、腐り得るもの、無機体とは非生命体で炭素化合物を含有せず、腐らないものである。
だが、中也の言う有機体、無機体とはそのような生物学的公式とは無縁である。ここで私の考えを言わせてもらえば、中也の有機体とは「目に見える存在」、無機的現象とは物質を超えた
そして、そのような世界を「見る」、すなわち認識し得るからこそ、それが中也にとって「如何しても神を信ぜしめなくては置かない所以のもの」になり得るのだ。
つまりは、前に述べた「見神歌」にも通じるが、彼がこのような無機的なものを見るに至ったのは、カトリックや浄土真宗などと触れ合った宗教的経歴が導火線となって、彼が本来具有する天才的閃きに発火したからではないだろうか。
人間が今知覚している意識は、その人が本来具有している全意識のほんの一割に過ぎず、残りの九割は潜在意識として深層下にあると言われている。天才とはその九割の潜在意識の開拓能力を有する存在ともいえる。
そしてその深層心理、潜在意識、人の霊体、自我の奥の真我、それらこそ中也のいう「無機的要素」であり、当然のこととして『神』へと連なる認識である。信仰とは、このような『神』の永遠を想見する能力である。
そのことは、中也も昭和10年11月21日の日記に書いている。
――天才にあって能才にないものは信仰であろう。/信仰というものは、おそらく根本的には「永遠」の想見可能能力であろう――。
『神』というものが永遠であるならすべて森羅万象は『神』のみ手内、『神』のお体の一部ということになり、天地一切が『神』の声なのである。だから、世に偶然なるものは一切なく、すべては『神』にとっての必然ということになる。
奇しくも中也は言う。
――人間にとっての偶然も神にとっては必然。運命は即ち、その必然の中に握られてあり(後略)――
総ての行きとし生けるものは生きているのではなく、『神』に生かされている。故に『神』は絶対であり、『神』の前では人は相対的である。だから中也も、「私はそれを表現することはできな」と、『神』を表現できないことを告白している。
それは当然のことではあるが、天才は『神』の足元のつま先でも見つけたらそれを頼りに少しでもよじ登ろうとする。その手段として「神の感覚の範囲に於いて歌う術を得る」のが詩人だと中也はいう。
「天才者が空威張りし、預言者が嘆息する」のもその手段の一つで、彼等も「神の手になれるもの」、すなわち「神の子」であるから、『神』に近づく手段として「盲目なれど」そういった行動をとるが、詩人にとってはそれが歌うことなのだと中也は認識する。
相対的手段をもって絶対的なものの表現を試みるのが詩人であり、その術の産物が詩であるという中也の規定によれば、その詩を学術的に解明しようなどできるはずがない。
『神』の世界は絶対であっても、この世の現界は相対的である。「相対の世界には神自らも相対性以外を行うとも見せられず」と中也は言う。『神』の世界はいざ知らず、この世では肉体がないと何もできないのと同様である。
ではその二つの界は全く別の世界かというと、仏教ではそれを「色即是空」と表現する。相対的なこの世と絶対的な『神』の世界は、それでいて表裏一体であり、別のものではないのである。
中也も後の別の評論である「詩に関する話」で「物と心は同時に在る
その冒頭とは「
そこから「地上組織」に戻ると、これこそ中也がそこで引用する諺、「自然は規定の法則を踏まずして一の塵、一の芥をも齎さず」ということになる。中也が「地上組織」でこの諺を引用したということは、自然こそ『神』のご意思の現象化と中也がとらえていたからではないだろうか。
自然は総てが「既定の法則」、すなわち万象弥栄えの
中也はこういった無機的要素を見る心を、「魂を促し目覚ますもの」と言う。現象的物質の世界は仮の姿で、目に見えない世界こそが魂と連動する世界だということを、中也は言いたかったのだろう。
さらに中也は、天才とは「無機的要素を人間能力なるものゝあらん限りに於て見る者のこと」と規定する。
「天才」とは、字のごとく「天が与えた才能」である。つまり中也が規定したところによると、「天才」とは『神』に与えられた才能で、『神』や目に見えないものを知覚する能力だということになる。そして無機的要素をやや少なく見るのが哲学家で、最も少ないのが科学者だという。
『真理』は理論や哲学の世界ではないことを中也は知っていたようだし、唯物科学の有限性をも感知していたと思われる。
そして対極的に、無機的なものを一番多く見るのが詩人だという。唯物的思考のものは、詩人にはなれないということになる。そして中也は「ああ、吾は歌わん」のひと言で、自分が詩人であり、冒頭の一行のごとく無機的要素を最も多く見るということを力強く宣言している。
ちょうど「詩的履歴書」では、この文章が書かれた年に「いよいよ詩を専心しようと大体決まる」と、あとで述べていることと一致する。
以上のような中也の認識は、まさしく「天才」のそれである。単にキリスト教一筋に没頭していただけでは、決して出てこない結論ではないだろうか。
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