第3章 天使がバスケットボール
生い立ちの中で
いよいよ中也の「芸術論」について語っていきたいと思うが、まず中也の「芸術論」のそれぞれが、彼の人生史上のどこに位置するかを見ておきたい。
中也の「芸術論」の中で時期的に最初のものは『地上組織』で、大正14年、彼が18歳の時だ。この頃の中也は長谷川泰子と同棲中で、泰子とともに京都から上京し、さらに泰子が親友の小林秀雄の元へと去っていったのもこの年である。
「詩的履歴書」によると、「いよいよ詩を専心しようと大体決まった」頃である。この『地上組織』でも、「ああ、我は歌わん」と「詩を専心」する心が読み取れる。
ただ、「『朝の歌』にてほぼ方針立つ」のは翌年、つまり泰子が小林秀雄の元に去ってから後ということになる。
彼は一年間の浪人生活を経て入学した日大をたった半年で中退し、当時は神田三崎町にあった外国語学校のアテネ・フランセに通い、フランス語を学んでいる。当時のアテネ・フランセは、フランス語と古典ギリシャ語、ラテン語を教授するのが専門の学校だった。
そして昭和4年、つまり中也が22歳の時に河上徹太郎、大岡昇平らとともに雑誌『白痴群』を創刊、「河上に呈する詩論」を書く。
翌年にはその『白痴群』に「詩に関する話」を発表するが、同誌はその号で廃刊となる。その様子を「以後雌伏」と、彼は後になって言っている。
その後、中也は東京外国語大学に入学し、それを卒業したあとの昭和8年、26歳で雑誌『紀元』の同人となった。この年に遠縁の上野孝子と結婚している。
翌年には詩集『山羊の歌』を刊行、泰子が小林秀雄の元へ去るという事件から8年後、「朝の歌」からは7年の歳月がたっている。
中也が28歳になった昭和10年、小林秀雄が「文学界」の編集責任者になるに従い同誌を中也は発表舞台とし、この年に「撫でられた象」を発表した。
日本中を震撼させた二・二六事件が起こった昭和11年は、中也は29歳、つまり死ぬ前年である。この年に中也は「我が詩観」を発表、まるで人生の総集編を記すがごとく、「詩的履歴書」を付している。
そしてその年の11月、2歳になったばかりの愛児文也が病没、衝撃を受けた彼は精神衰弱が高じて翌年は千葉寺療養所に入院、退院して鎌倉に住むが、いよいよ関東を引き払って故郷の山口に帰ることを決意した。だが、その帰郷を翌月にひかえた10月に、彼は鎌倉にてこの世を去るのである。
つまり、「詩を専心しよう」と決意した18歳の時の「地上組織」が彼の芸術論の出発点なら、死ぬ前年の「我が詩観」が、彼の意図とは反して最終点となってしまった。
そこでまずは出発点の「地上組織」から見るが、その次はいきなり最終点の「我が詩観」へ目を転じてみたい。
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