宗教的履歴書

 中也の宗教的経歴を見るには、まずその故郷である山口と、彼の家系について語らねばならぬ。

 山口は室町時代には西国第一の覇者といわれた大内氏の本拠地で、都の貴族や僧侶のうち相つぐ都での戦乱を避けてきた者たちを城下に置き、「西の京」とも呼ばれる盛況ぶりだった。ちょうど東山文化の特色でもある地方文化の興隆が、山口でいちばん顕著に見られたのもそのころだ。

 日本に初めてキリスト教がもたらされたのも、そんな時代においてであった。もたらしたのはいうまでもなくカトリックのイエズス会に所属するフランシスコ・ザビエル師で、ザビエル師が鹿児島に上陸した後、日本で最初に布教活動を行ったのがほかならぬ山口であった。彼は領主の大内義隆の許可を得て、山口で布教した。

 こうして山口は日本におけるキリスト教史の黎明期よりキリスト教、特にカトリックと因縁深い土地柄である。後世、山口ではザビエル記念聖堂がキリスト教伝来四百年を記念して昭和27年に建てられて威容を誇っていたが平成3年に焼失、平成10年に近代的なデザインで再建された。

 そのザビエル記念聖堂から南西3キロほどの所に、湯田温泉という小さな町がある。今でさえ山口市内全域が本当に県庁所在地なのかと疑うくらいの落ち着いた静かな町なのだが、昔の湯田温泉一帯は下宇野令村という一寒村だった。

 そこで、中也は生まれた。

 この湯田温泉は中也が死んだ翌年に、この湯田温泉に自由律俳句として有名な種田山頭火が一年ほど住んでいる。山頭火も山口出身で、中也は晩年に住んでいた鎌倉を引き払って故郷の山口に帰る予定をしていたその寸前に死んだのだから、もし死なずに予定通り故郷に帰っていたらおそらく山頭火との交流も生じたであろう。

 二人がその以前に交流があったという記録はないが、湯田温泉に逗留時に山頭火は、死んだ中也の弟の呉郎とは交流があった。中也の一周忌の頃に中原家を訪ねた山頭火が中也の母と妻、呉郎らと一緒に写した記念写真が残されている。

 なお、中也は若くして死んだので、先に死んだ中也よりも山頭火の方が二十五歳も年上である。


 さて、中也の宗教的経歴だが、その最初は彼の出生時にその祖父母の政熊とコマがクリスチャンであったことだ。政熊とコマは正確にいうと中也の戸籍上は祖父母であるが、血統上は大叔父、大叔母である。中也の母の福は政熊の兄の助之の娘で、兄に代わって家督を継いだ政熊が福を養女にしたのである。

 政熊は当時湯田医院を開業していたが、山口の米屋町の仮聖堂で布教活動をしていたフランスのカトリックの修道会パリ外国宣教会のヴィリオン師(山口教会第三代主任司祭)より洗礼を受け、かなり熱心にキリスト教を信仰していた。

 ちなみに大正期になってから山口の教会はパリ外国宣教会の管轄を離れ、ここで最初に布教したザビエル師の所属していたイエズス会の管轄となり現代に至っている。

 このヴィリオン師のいた明治時代、幼少時の中也は祖母のコマに連れられてよく教会を訪れていた。

 中也の宗教意識はこのころに芽生えたと考えられるが、その第一はカトリックだった。


 第二の宗教的経歴として、彼の父の謙助が大のキリスト教嫌いだったということが挙げられる。謙助は政熊の養女で後に中也の母となる福のところへ小林家から入り婿としてきたのだが、軍医であった。

 謙助は中原家を、政熊が離脱していた浄土宗の菩提寺へと戻し、また中也の家庭教師の村重正夫の勧めで中也が西光寺に学びに行くことも許している。こうして幼い中也の宗教意識の中に、キリスト教と仏教が同居することになる。

 相反する二つの宗教を自分の内面に矛盾させることなく共存させてしまったところに、中也とて神道に立脚した本来は宗教に寛容な日本人の民族性を備えていたのかもしれない。

 しかし、それ以上に彼の天才的素質、言い換えれば彼が幼いころから『真理』に対する卓越した直勘力を持っていたともいえよう。

 キリスト教と仏教が別のものではなく本質的に同じものであることを勘じ、また彼がキリスト教に入信しなかったのはキリスト教や仏教がイエスや釈尊の教えと別のものになってしまっていることを勘じたからではないだろうか。

 彼は宗教学的になキリスト教や仏教を研究した形跡はなく、また心で感じたのでもなく、その魂の「甚だしい力」で見てとったので、故に勘じたと書く。魂で知覚し得たということは、後の彼の「芸術論」を読めば分かるのである。


 中也は大正14年に評論『地上組織』を発表して以来、その「芸術論」で『神』の存在、『神』と芸術との関連について語り続けている。

 その大正14年といえば、中也が宮澤賢治の『春と修羅』を購入、愛読していた年だ。中也における宮澤賢治の影響はよく論じられるが、ここも根本は信仰の問題であろう。

 賢治の創作の根底にも、中也と同じくその基盤に信仰があった。賢治の場合は無二念に「法華経」に没頭し、日蓮を師と仰いだ。創作の合間には『祈祷経送状』『佐渡御書』などを抜き書きし、また田中智学の主宰する日蓮教団「国柱会」に入信している。

 このように賢治の信仰の基盤は中也とは異なり、また中也も賢治にそのような信仰基盤があったことを知っていたかどうかは知らないが、それでも中也が賢治の影響を受けたということは何を意味するのだろうか。

 やはりそれは自分と同じように賢治も信仰というものを土台にしているという中也の閃きと、また賢治のそれが自分と異なる日蓮や「法華経」への信仰であったとしても、そのようなことは問題としない中也の信仰の寛容性と柔軟さを物語っているのではないだろうか。

 宗教の垣根を打ち払ったところに見えてくる全宗教は元一つという『真理』に、中也は多少なりとも近づいていたように思われる。

 だからこそ、中也は賢治が「法華経」一辺倒だったのとは違い、キリスト教一辺倒にはならなかったのだろう。中也は晩年もよく教会を訪ね、カトリックの「公教要理」も読んでいたらしいが、同時に仏教、特に浄土教的な教えへの造詣も失ってはいなかったらしいことが「千葉寺雑記」の「『他力』にぞっこん惚れぼれ致しました」などという記載からも分かる。  

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