宗教者の眼

 以上、中也の詩の中からキリスト教的な語句を拾ってはみたが、もちろんこれだけで彼が宗教詩人であるなどということは言えない。これらの語句は、彼の詩の総量全体からみればパーセンテージは小さい。

 実は彼の宗教性は詩よりも、「芸術論」の方により顕著に表れている。「芸術論」でさんざん『神』や信仰について言及している中也の詩としては、詩の中から列挙した宗教的語句は甚だ少ないと言えるのである。これはなぜだろう。

 つまり、太宰治がほとんど聖書に没頭していたほどには、彼は聖書にのめりこんではいなかったということかもしれない。中也のキリスト教とのかかわりは、祖父母の影響でわずかにキリスト教に接したことと、晩年によく教会を訪れていたことくらいしかない。前にも書いたが、中也はキリスト教には入信してはいないし、聖書を座右の書としていたという形跡もない。


 だが、このことは中也にとって幸せだったかもしれない。彼がキリスト教に入信しなかったことにより、彼自身がキリスト教の教義という垣根にとらわれずに、より『真理』に近づけたともいえないこともないからだ。

 キリスト教に入信しなかったからこそ、キリスト教の教義に固執せずに自由に『神』に接し、戒律にも縛られず、柔軟な姿勢で仏教にも接することができた。

 最近では事情は違うが、中也の頃のカトリックといえばキリスト教以外の宗教は悪魔の教えとして、近づくことすら禁じていたくらいだ。そのキリスト教の体質にも縛られずに、中也は宗教の次元を超えて自由にいろいろな教えに接し、『神』―自然(至善)―芸術の図式を認識し得たのではないか。


「ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。」


『山羊の歌』の巻末を飾る「いのちの声」の最後は、この一行で締めくくられている。中也とも交遊があり、フランス語の手ほどきを中也から受けていた評論家で随筆家の吉田秀和は、この一行を「信条告白の歌」ととらえ、「万有との一体に帰すること」と述べている。つまり、己を捨てて自然と一体になること――自人一体は神人一体であり、神の子の認識であり、さらには己の神性化ということにもなる。

 「神」と人との間に一線を画すキリスト教の教義からは、この概念は出てこない。まさしく惟神かんながらの道なのである。すなわち、吉田氏はそれを「宇宙との交感」とも言っている。

 また同氏の「自我から出発するしかなかった」という中也への言及にしても、中也の「寒い夜の自我像 3」の「ああ神よ、私が先づ、自分自身であれるやう/日光と仕事をお与へ下さい!」の「自分自身であれる」ということも、中也の自分認識が『神』と一体であり自然と一体、神の分けみ魂である自我、自分自身の自覚に裏付けられるものだと思う。

 つまり、中也自身が「河上に呈する詩論」で、「人間のあの、最後の円転性、個にして全てなる無意識に持続する欣怡の情」と言っていることである。

 中也にとって他人とて、もはや自然の一部なのだ。そして自然と一体にならんと思う故に、他を無視できな性質を含んでいる。


 「盲目の秋 Ⅱ」では「自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ」と叫んでも、「千葉寺雑記」では「他力だ、他力だ」と弁明する。

 つまりは、彼の言う「個」は常に全体を意識し、“個にして全にして個”(全体との関連の中の個の認識)、個にして個に非ずして個であり、決して孤ではない個なのである。

 詩については、これ以上何かを言うのは差し控えよう。中也の「千葉寺雑記」の中で、「結局言葉では何事もいい表せるものではない。さればこそ従来とも暗示的な詩法を採っている」と言っているし、そういう性質の「詩」というものを解釈しようとするなら、中也同様「まごつかねば」ならなくなる。

 よって、ここからは『芸術論』を中心に述べていきたい。

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