『神』との出会い

 まずは中也の詩の中で、キリスト教的な語句を列挙してみよう。

 最初は「宿酔」の「千の天使が/バスケットボールする」、そして「盲目の秋 Ⅲ」には「聖母」が登場する。この聖母は長谷川泰子のことだとかいろいろいわれているが、とりあえずここではそれは置いていおく。キリストの母マリアを「聖母」と位置付けるのは、キリスト教の中でもカトリックにのみある概念だ。


 また、「妹よ」の「――祈るよりほか、私に、すべはなかった……」の語句、「羊の歌 Ⅰ祈り」では「罰せられて、死は来たるものと思ふゆゑ」と彼は歌い、「ダダ音楽の歌詞」と「古代土器の印象」では「クリスト(キリスト)」の名が詩の中に登場する。


 また、少々解説を要するが、「少年時」には「世の滅ぶ 兆のやうだった」とある。

 世の滅ぶ――終末論は『新約聖書』の骨子である。『新約聖書』の「新約」の「約」はこの世の終末に最後の審判が行われ、『神』のみ意にかなったものにとっては救いとなるキリストの再臨があり、神の国が訪れるという“契約”のことである。従って、この世の終末は神の国の始まりでもある。中也の言う「世の滅ぶ」は、この終末観に基づいているのかもしれない。


 さらに、「妹よ」や「心象」で「み空」という言葉が使われているが、単に「空」としなかったのは、空はすなわち天国、『神』のお在します処なので、「み空」としたのであろう。


 「無題 Ⅴ幸福」の「幸福は厩の中にゐる」の「厩」は、言うまでももなくキリスト生誕の場所である。


 「つみびとの歌」の“つみびと”とは、罪人とは違う。罪人はあくまで法律上、道徳上のものであるのに対し、“つみびと”は信仰上の語彙なのである。


 「秋日狂乱」に「昇天」なる言葉があるが、キリストの昇天との意味合いもあろう。さらに、今日のキリスト教では「死」を「昇天」と表現することもある。

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