第1章 古代の象
「宗教詩人」
中原中也を「宗教詩人」と定義している人たちには、中也の友人でドイツ文学者の阿部六郎(俳優の阿部六郎ではない)、同じく中也の友人の文芸評論家、河上徹太郎などがいる。
阿部はその著「中原中也断片」にて、次のように述べる。
――中原の念願は「真意の世界へもぐり入ることだった。(中略)一番大切な潤いを涸渇させながら、「悪酔いの狂ひ心地に美を求める」か、殺伐な復讎欲に目を怒らすか、泡のように根も葉もない刺激に生きるか、世を挙げてそんな生き方に我を忘れている時代、神の小羊の純心に結集して生きようとする詩人の現存を見ることは、驚異という他なかった――。
たしかに、阿部および中也が活躍した大正から昭和初期の人々にとって、そういった中也の現存は驚異であっただろう。なぜなら、中也と同時代人がとらえている「神」とは、観念上の「神」であろうからだ。キリスト教の教義上の、信仰上の神観念で中也の宗教観を見る時、ただ驚異のみが残るのも当然だと思う。
日曜の教会に集うキリスト教信者の中でも、神を観念上、教義上のもの以上のものとして認識している人がはたして何割いるだろうか? ましてや、一般の人たちが神を観念上のもとしてしかとらえられなくても、無理はない。
しかし、中也にとっての「神」はそのような観念上のものではなく、厳として実在する『神』であると私は直勘する。
中也の「神」と「芸術」のとらえ方、および「神」の存在規定、すなわち彼が言う「神とはどういうものか」という言及、それらからうかがい知ることができるのは、彼が決して神を観念上のもとしてしかとらえていたのではないということだ。そのようなとらえ方からは決して彼の認識や「芸術論」は生まれ得ないし、また「神」の実在を認識、もしくは智覚しているもののみがそれに共鳴できる。
中也が悟りを開いていたなどというつもりはないが、当時の人としては恐ろしくも、さらに正式なキリスト教徒ではないのにもかかわらず、キリスト教徒以上に『神』に肉薄している。
中也の詩の根底には『神』があり、その芸術論も『神』と「芸術」の探求に貫かれている。
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