第222話 はい。僕はブラックです

 エマがライトのジト目に耐え切れなくなり、咳払いして本題に入った。


「実は、食の伝道師たるライト君に見てもらいたい種があるの」


 (僕はいつから食の伝道師になったんだ?)


 そう思っても話の腰を折る訳にはいかないから、エマがテーブルに乗せた袋を手に取った。


 袋を開けて中身を見ると、その形状にライトは見覚えがあった。


「これ、コーヒー豆じゃないですか!」


「知ってるのライト君? というか、豆? 種じゃないの?」


 (あっ、しまった。うっかりしてた)


 初めて見るはずの物にもかかわらず、懐かしさすら滲ませるような言い方をしてしまったことに気づいてライトはヒヤッとした。


 それゆえ、すぐに誤魔化しに入った。


「オホン、これは種ですよ。以前読んだ本に種だけど豆と呼ぶことがあると書いてあったんです」


「へぇ、ライト君はやっぱり物知りだね」


「読書は人生を豊かにしてくれますから。エマさんもいかがですか?」


「そうだね。何が役立つかわからない世の中だし、帰ったら気になるところから手を付けてみるよ」


 誤魔化ミッション完了コンプリートである。


 念のため、ライトは<鑑定>も発動した。


 (カフェチェリーの種か。まあ、前世でもコーヒーチェリーの種だもんな)


 名前が若干違ったが、ライトが目で見てわかった通りコーヒー豆だった。


 ただし、<鑑定>の結果にコーヒーとしての使用法が載っていなかったため、ニブルヘイムのどこにもまだコーヒーが存在していないことが発覚した。


 それはさておき、今の今までコーヒーがなくても全然不便に思わなかったのだが、いざ目の前に未加工のコーヒー豆があれば飲みたくなるのは仕方のないことだろう。


「試しに作ってみますか」


「これって食べられるの?」


「いえ、飲み物に変わります」


「美味しいの?」


「本によれば大人の味だそうです」


 大人の味と聞いて、エマがゴクリと喉を鳴らした。


 酒を飲んでも問題ない年齢のエマだが、アルコールが得意ではないようで大人の飲み物に憧れがあった。


 それをこの場で飲めるかもしれないと思えば、自然と喉を鳴らしてしまった訳だ。


 ということで、ライト達は厨房へと向かった。


 アンジェラを呼んで必要な器具、もしくはその代用品を揃えると作業を始めた。


 まずは手網で生のコーヒー豆を炒る。


 ダーインクラブには銀杏に似た木が生えているため、秋になるとイルミがそれを食べるために手網が厨房にあったのが幸いした。


 焼きムラができないように手首を使ってリズミカルに揺すり続けると、水分が抜けて色づき始めて皮が取れて薄茶色の中身が見えた。


 そこから10分程度炒り続けると、パチパチと弾ける音が聞こえて来た。


「わわっ!?」


「エマ、驚き過ぎじゃない?」


「急に弾けたら驚くってば!」


「そんなものかしら?」


 ヒルダが冷静で少しも驚かないせいで、エマは自分を子供っぽく感じてしまった。


 ライトが成人するまでに結婚したことで、ヒルダが先に大人の階段を上ってしまったため、これが大人の余裕かというよくわからない感想をエマは抱いた。


 更に5分ぐらい炒り続けると、今度はチリチリという音が聞こえて来た。


「今度は驚かないの?」


「もう、意地悪しないでよ」


「ごめんね。でも、なんだか香ばしい匂いがする」


「うん。不思議だね」


 煙が出てコーヒーらしい香ばしい匂いがすると、初めて嗅ぐ匂いにヒルダもエマも不思議そうな顔をした。


 その一方、ライトは内心ホクホク顔である。


 (これだよこれ。コーヒーだ。でも、まだ飲むまで時間かかるんだよなぁ)


 コーヒーを知るライトは早く飲みたいと思うけれど、まだまだ飲むまでに工程がいくつもあるとわかっているので少し面倒だとも思っていた。


 これ以上炒り続けると、初心者2人が苦さからコーヒーに苦手意識を持ってしまうかもしれない。


 そう思ったライトは火を止めて、団扇で粗熱を取り始めた。


 火を止めても放置していると篭った熱で焙煎が進んでしまうから、この作業は絶対にしなくてはいけない。


 本来であれば、焙煎した豆をすぐに飲まずに2日ぐらい置くべきだが、ライトはコーヒーが飲みたいから今日はそのまま挽く作業に入った。


「アンジェラ、コーヒー豆を挽くの手伝って。やり方は僕と同じようにして」


「かしこまりました」


 ライトに指示され、アンジェラもライトと同じようにコーヒー豆を挽き始めた。


 ミルがあればベストだが、残念ながらコーヒーのない世界にはミルもない。


 だから、擂鉢と擂粉木で代用する。


 粒の大きさができるだけ均一になるように気を付け、ライトとアンジェラがコーヒー豆を挽いた。


 4人分挽き終わると、いよいよコーヒーを淹れる工程に移る。


 ダーイン公爵家ではエリザベスが紅茶を好んで飲んでいたため、ドリップ用のフィルターがある。


 お湯を沸かしたら、カップにフィルターをセットしてその中に1杯分の粉を入れる。


 それを4回繰り返すと、ライトは1つ目のカップから順番にコーヒーを淹れる。


 という字を描くように淹れると良いという知識は、前世でコーヒー好きの友達から習ったものだ。


 全ての工程が終わると、ライトは小さく息を吐いた。


「ライト、お疲れ様」


「ありがとう、ヒルダ」


 集中して作業に取り組んでいたせいか、作業を終えたライトの額には汗が滲んでいた。


 それをハンカチで拭うヒルダがあまりにも自然だったので、エマが戦慄したのはここだけの話だ。


 厨房から近い食堂に移動し、ライト達は席に着いた。


 遂に試飲の時が来たのである。


 一応、ブラックが飲めない人がいてはいけないので、砂糖とミルクも用意してある。


「「「「いただきます」」」」


 ひとまず、全員ブラックで試してみることにした。


 苦ければすぐに調整すれば良いという考えだ。


「うっ、苦い」


 エマはブラックが駄目だったらしく、すぐに砂糖に手を伸ばした。


「口直しに良さそう」


「眠気覚ましにもなりそうですね」


「ヒルダもアンジェラも正解。コーヒーは食後の口直しや眠気覚ましに飲むんだ」


 ライトが微笑みながら言うと、エマはライトに訊ねた。


「ライト君、そのままで平気なの?」


「はい。僕はブラックです」


 ブラックな労働環境は大嫌いな癖にコーヒーはブラックを好むとは、これいかに。


 いや、それぐらい別に普通だろう。


「これが小聖者マーリン。いや、二つ名持ちになれるかどうかはブラックで飲めるかどうかで決まるのね」


「それは違います」


 飛躍した発想を口にするエマに対し、ライトは冷静にツッコミを入れる。


 コーヒーを飲めるどうかというだけなのに、それが二つ名持ちになれるかどうかと比例するのならば、世の中は二つ名持ちばかりになってしまうだろう。


 二つ名というのは、あくまで多くの者から同一の呼び名で認識されて初めて定着する。


「ライト君が気に入ったなら、今日持って来た分は全部あげるよ。飲み方も教えてもらったしそのお礼ってことで」


「ありがとうございます。安定して手に入るようでしたら、定期的に買わせてもらいますよ」


「それは嬉しいかも。物騒になって来たから、防衛のために結構お金使ってるんだよね。トーレスノブルスから数キロ離れた所で起きた惨殺事件のことは知ってる?」


「1人の女性が大勢の男に袋叩きにされて殺された事件のことですね?」


「そう、それ。怖いよね。痴情のもつれって話らしいけど、実行犯達が殺した後に洗脳されてたってわかったんだって」


 (直接クシャナを殺したのは呪信旅団じゃないけど、多分呪信旅団が裏で糸を引いてるよね)


 殺された者はナーガと呼ばれる女性だという連絡を受けているが、ライトはその女性がクシャナ=エイクシュニルであることを知っている。


 教皇選挙期間に起きたトーレスノブルスの一件は、クシャナのマッチポンプだということは関係者達にとって既知の事実だ。


 しかし、それをこの場で口にすれば、ブライアンを隠居させて家督を継いだジェシカが大変な目に遭う。


 父親ブライアンの責任をジェシカが取るというのもおかしな話だが、世間は一族を同類として捉えるだろうからそうなることは間違いない。


 ジェシカが火消し対応に追われれば、ドゥネイルスペードの領民にも少なからず影響が及ぶ可能性がある。


 そう考えると、事実の隠蔽が褒められたことではないが表沙汰にできないのも仕方ない。


「怖いですよね。アンデッドだけに注意を払えば良いって訳でもありませんから」


「本当にそれよ」


 コーヒー豆の使用方法についての話し合いが終わると、外は暗くなっていた。


 この日、エマはライトの屋敷に泊まり、セーフティーロード構想をレギンに伝えるべく翌日の早朝にダーインクラブを発った。

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