⑥
貳
早朝。ひんやりとした空気に身を震わせて、幻は目を覚ました。立ち上がると、誰かがかけてくれたであろう毛布が落ちた。
「…おぉ、最近早起きだな」
自分で自分を褒めてやって、机に突っ伏して寝息を立てている紺と鹿波を見下ろす。落ちた毛布を拾い上げて、鹿波の肩にもう一枚かけてやった。紺は体温が高いので大丈夫だろう。
状況からして、話ながら寝てしまったんだろう。最後の方の記憶が朧げだ。毛布をかけてくれたのは今この場にいない湊だろう。
「湊さん、稽古場かな?」
軽く伸びをして、冷たい床を歩いていく。
稽古場を覗いてみると、誰もいなかった。
「…いない…」
一体どこにいるのか。まだ薄暗いので、街に出かけるのは早いと思っていたのだが。
「買い物にでもいったのかな…」
店のやっては開いているところもあるはずだ。
首をかしげていると、庭からバシャバシャと勢いのある水音が聞こえてきた。もしかしたらコロンが水遊びをしているのかもしれない。春になったとはいえ、まだ朝は肌寒い。風邪をひいては大変だ。
少し足早に庭に出ると、探していた人物の姿があったので軽く息をつく。
「湊さん、風邪ひきますよ」
頭から水をかぶった様子の湊を、彼は目を半目にして眺める。
「…ん?」
その声に、彼は水浸しになった髪をかきあげながら振り向いた。そして、ニヤリと笑う。
「これは俺の日課だから今更風邪なんか引かねぇよ。早いじゃねぇか、幻。おはよう」
紺とよく似た髪をギュッと絞って、水を軽く切る。そのまま髪紐で括ると、いつもの湊の完成だ。
「髪、ちゃんと乾かさないと紺に文句言われますよ」
一連の動作を見ていた幻が、足元にやってきたコロンを抱き上げながら言った。それに、彼は苦笑する。
「そうは言ってもなぁ…どうしても邪魔で縛っちまう癖がついてて、つい」
「切ればいいのでは?」
「面倒なの」
コロンと二人で、湊のことをじっとりと見つめる。
「……おいコロン、お前飼い主裏切る気か」
同じくジト目で見返す湊に、コロンは鼻をひくつかせて、体を捩り幻の腕から逃げ出した。
「あーあ、逃げちゃった」
責めるような声音に、湊はぐっと言葉を詰まらせる。
「どっちが悪いんだ、今の」
「さぁ。ほら、中に入りますよ」
「へいへい」
不満そうに、湊は先に中に入っていく幻の背中を追った。
ぼんやりとした意識の中で、ほのかに出汁の香りが鼻腔を掠めた。それに、紺の意識がゆっくりと浮上していく。
パチパチと瞬きをして、固まっている体をほぐすように動かす。
服が擦れる音に、朝食の準備をしていた湊が振り向いた。
「起きたか。おはよう」
「…おはよう」
懐かしい光景だ。ふわりと笑って、紺は立ち上がる。
「手伝う。幻ちゃんたちは帰ったノ?」
「ああ。朝飯食ってくか聞いたら卯月と一緒に食べるから、って幻に断られた」
少し寂しそうに言う湊に苦笑して、紺はまな板に置かれたネギを切り始める。
「後でもう一回うちに来るって言ってたぞ」
「そっか。まぁ、幻ちゃんもカナちゃんと二人になりたかったんだろうネ」
「まぁなぁ。卯月のやつまだ寝ぼけてて、幻に半分引きずられていってぞ」
鍋をかき混ぜながら言う湊に、紺はその光景を思い浮かべて笑った。
「カナちゃん、寝起き悪いヨネ。幻ちゃんもだケド」
「お前は寝起きいいよなぁ。一回目が覚めるとスッキリした顔しちゃって」
「それ、幻ちゃんにも言われル。あ」
湊の顔を見たと思ったら、その視線が後頭部へと止められる。それに、彼は気まずそうにそっと目を逸らした。
「…オヤジ…また髪乾かしてないデショ」
低い声音に、湊は身を縮ませる。幻の言った通りだった。
「いや…その…忘れてて」
「嘘ダネ。めんどくさがって乾かさなかったんデショ」
図星である。言葉を詰まらせる義父に、彼は呆れたように大きなため息をつく。
「風邪引いたら大変だから、早く乾かしてキテ。あとは俺が作ル」
「えー」
子供のように口を尖らせる湊をじろりと睨む。彼は観念したように風呂場へと姿を消した。
まだ寝ぼけている鹿波を適当に敷いた布団の上に転がしておいて、幻は自宅の台所に立ち朝食の準備を始めようと、普段食材を置いてある場所に足を向ける。
そこには、何もなかった。
「は?」
さすがにこれは予想していなかったので、幻は目を丸くする。
鹿波は、正直に言って料理があまり得意ではなかった。なので、二人で暮らしていた時は幻が作るか、湊たちのところにお邪魔するかをしていたのだが。
「え、父さんまさか毎日湊さんのところ行ってたの?ありえない…」
もともと生活力のある人ではなかったが、ここまでとは。
ため息をついて、幻は街で食材を買いに行くのを決めた。このままでは何もできない。
鹿波に一声かけるために、彼が寝ている場所に行く。そして、呑気に寝息を立てている鹿波のことを軽く揺さぶった。
「父さん、ちょっと」
「んー?」
かろうじて返事があったので、そのまま言葉を続ける。
「食材が何にもないから、ちょっと買い物行ってくる。おとなしくしててね」
これではどちらが義父なのかわからないな、などと考えて、幻はため息をつく。
一応もぞもぞと動いている鹿波を放置して、幻は家を出ていった。
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