早朝。ひんやりとした空気に身を震わせて、幻は目を覚ました。立ち上がると、誰かがかけてくれたであろう毛布が落ちた。

「…おぉ、最近早起きだな」

 自分で自分を褒めてやって、机に突っ伏して寝息を立てている紺と鹿波を見下ろす。落ちた毛布を拾い上げて、鹿波の肩にもう一枚かけてやった。紺は体温が高いので大丈夫だろう。

 状況からして、話ながら寝てしまったんだろう。最後の方の記憶が朧げだ。毛布をかけてくれたのは今この場にいない湊だろう。

「湊さん、稽古場かな?」

 軽く伸びをして、冷たい床を歩いていく。

 稽古場を覗いてみると、誰もいなかった。

「…いない…」

 一体どこにいるのか。まだ薄暗いので、街に出かけるのは早いと思っていたのだが。

「買い物にでもいったのかな…」

 店のやっては開いているところもあるはずだ。

 首をかしげていると、庭からバシャバシャと勢いのある水音が聞こえてきた。もしかしたらコロンが水遊びをしているのかもしれない。春になったとはいえ、まだ朝は肌寒い。風邪をひいては大変だ。

 少し足早に庭に出ると、探していた人物の姿があったので軽く息をつく。

「湊さん、風邪ひきますよ」

 頭から水をかぶった様子の湊を、彼は目を半目にして眺める。

「…ん?」

 その声に、彼は水浸しになった髪をかきあげながら振り向いた。そして、ニヤリと笑う。

「これは俺の日課だから今更風邪なんか引かねぇよ。早いじゃねぇか、幻。おはよう」

 紺とよく似た髪をギュッと絞って、水を軽く切る。そのまま髪紐で括ると、いつもの湊の完成だ。

「髪、ちゃんと乾かさないと紺に文句言われますよ」

 一連の動作を見ていた幻が、足元にやってきたコロンを抱き上げながら言った。それに、彼は苦笑する。

「そうは言ってもなぁ…どうしても邪魔で縛っちまう癖がついてて、つい」

「切ればいいのでは?」

「面倒なの」

 コロンと二人で、湊のことをじっとりと見つめる。

「……おいコロン、お前飼い主裏切る気か」

 同じくジト目で見返す湊に、コロンは鼻をひくつかせて、体を捩り幻の腕から逃げ出した。

「あーあ、逃げちゃった」

 責めるような声音に、湊はぐっと言葉を詰まらせる。

「どっちが悪いんだ、今の」

「さぁ。ほら、中に入りますよ」

「へいへい」

 不満そうに、湊は先に中に入っていく幻の背中を追った。



 ぼんやりとした意識の中で、ほのかに出汁の香りが鼻腔を掠めた。それに、紺の意識がゆっくりと浮上していく。

 パチパチと瞬きをして、固まっている体をほぐすように動かす。

 服が擦れる音に、朝食の準備をしていた湊が振り向いた。

「起きたか。おはよう」

「…おはよう」

 懐かしい光景だ。ふわりと笑って、紺は立ち上がる。

「手伝う。幻ちゃんたちは帰ったノ?」

「ああ。朝飯食ってくか聞いたら卯月と一緒に食べるから、って幻に断られた」

 少し寂しそうに言う湊に苦笑して、紺はまな板に置かれたネギを切り始める。

「後でもう一回うちに来るって言ってたぞ」

「そっか。まぁ、幻ちゃんもカナちゃんと二人になりたかったんだろうネ」

「まぁなぁ。卯月のやつまだ寝ぼけてて、幻に半分引きずられていってぞ」

 鍋をかき混ぜながら言う湊に、紺はその光景を思い浮かべて笑った。

「カナちゃん、寝起き悪いヨネ。幻ちゃんもだケド」

「お前は寝起きいいよなぁ。一回目が覚めるとスッキリした顔しちゃって」

「それ、幻ちゃんにも言われル。あ」

 湊の顔を見たと思ったら、その視線が後頭部へと止められる。それに、彼は気まずそうにそっと目を逸らした。

「…オヤジ…また髪乾かしてないデショ」

 低い声音に、湊は身を縮ませる。幻の言った通りだった。

「いや…その…忘れてて」

「嘘ダネ。めんどくさがって乾かさなかったんデショ」

 図星である。言葉を詰まらせる義父に、彼は呆れたように大きなため息をつく。

「風邪引いたら大変だから、早く乾かしてキテ。あとは俺が作ル」

「えー」

 子供のように口を尖らせる湊をじろりと睨む。彼は観念したように風呂場へと姿を消した。



 まだ寝ぼけている鹿波を適当に敷いた布団の上に転がしておいて、幻は自宅の台所に立ち朝食の準備を始めようと、普段食材を置いてある場所に足を向ける。

 そこには、何もなかった。

「は?」

 さすがにこれは予想していなかったので、幻は目を丸くする。

 鹿波は、正直に言って料理があまり得意ではなかった。なので、二人で暮らしていた時は幻が作るか、湊たちのところにお邪魔するかをしていたのだが。

「え、父さんまさか毎日湊さんのところ行ってたの?ありえない…」

 もともと生活力のある人ではなかったが、ここまでとは。

 ため息をついて、幻は街で食材を買いに行くのを決めた。このままでは何もできない。

 鹿波に一声かけるために、彼が寝ている場所に行く。そして、呑気に寝息を立てている鹿波のことを軽く揺さぶった。

「父さん、ちょっと」

「んー?」

 かろうじて返事があったので、そのまま言葉を続ける。

「食材が何にもないから、ちょっと買い物行ってくる。おとなしくしててね」

 これではどちらが義父なのかわからないな、などと考えて、幻はため息をつく。

 一応もぞもぞと動いている鹿波を放置して、幻は家を出ていった。

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