その日の夜。道場の戸を叩いた者がいた。

 夕飯を食べ終えのんびりとしていた紺たちは、それに首をかしげ玄関まで出向く。

 戸を開けると、そこには仔犬を殴っていた少年とその母親らしき人物が立っていた。

『…何か?』

 母親の雰囲気から、ただならぬものを感じて湊はそっと紺を後ろに隠す。

『何か、ではありませんよ。うちの子がお宅の紺くんに突き飛ばされて怪我をさせられたんです。どうしてくれるんですか』

 後ろに隠れている紺を目敏く見つけ、母親は睨みつける。仔犬を殴っていた少年は、そんな様子に楽しそうに笑っていた。

 紺が思わず言い返そうとしたところで、湊がその肩を掴んで止める。

『…すみません。あいにくと、うちの紺は何もないのに人を傷つけるような子供ではありません。失礼かとは思いますが、あなたの息子さんが何かしたのでは?』

 毅然とした態度で言い切った湊に、彼女は顔を真っ赤にして声を張り上げた。

『なんてことを…!うちの子が悪いって言うんですか!?どう考えたって怪我をさせたお宅の子の方が悪いでしょう。やっぱり、親が居ない子なんてろくな子供にはならないんでしょうね!』

 その言葉に、湊がぴくりと反応する。紺は、慌てて力のこもったその拳をギュッと握った。

(オヤジ、怒っちゃダメ…!)

『伊月の道場も紺くんのせいで汚れてしまいますね。お気の毒に…!道場のことを考えるのなら、その子を別の所にやってしまえば良いのでは?』

 湊がなにも言わないのをいいことに、母親は気分の悪い笑みを浮かべながら次々に紺を罵っていく。

 それと同時に、湊の拳にはさらに力が入っていく。そろそろ限界だ。紺が前に出ようとした、その時。

『おばさん、それは違いますよ』

 冷気を孕んだ幼い声音が、その場に響いた。

『…は?』

 それまでよく回っていた母親の口が、ぴたりと止む。声の聞こえた方へと目を向けると、幻が義父ちちおやらしき人物と共にそこに立っていた。

『違うって、何が?』

 母親が不審そうに眉を寄せながら聞いた。幻はふわりと微笑むと、首をかしげる。

『何って…今あなたが言っていたこと、全部のことです。つまり、わかりやすく言い直すと全てが違う、ということですよ。おばさん』

『そ、そんなの、証拠はあるの?そもそも、あなたはいつから話を聞いていたって言うのよ!?』

 一気に捲し立てる相手に冷たい瞳を向けながら、彼はこてんと子供らしく首をかしげた。

『それを言うなら紺くんが理由もなくあなたの息子さんに怪我をさせたという証拠は?あなたの息子さんが何もしなかったという証拠は?俺は、あなたがここに来て湊さんに苦情を言い始めた時からここにいましたよ。まぁ、あなたは湊さんへの…というより、紺くんへの苦情を話すのに夢中なっていたようで、お気づきになられなかったみたいですけどね』

 彼の言葉に、彼女はぐっと言葉を詰まらせる。

『…あなたの息子さんは今日、仔犬を殴って遊んでいたんです。紺くんはそれを止めるために軽く突き飛ばしただけ』

 淡々と事実を告げる幻に、母親はわなわなと肩を震わせる。

『嘘よ…!それこそ、証拠はあるって言うの!?』

『ありますよ。その場には他にも子供達がいたので、その子たちに聞けば一発です。ね?』

 にっこりと微笑んで、彼は仔犬を殴っていた少年を見据える。少年の顔色が、一気に青白いものへと変わった。

 母親が少年の肩を掴む。

『本当なの?』

『…うん。俺が仔犬を殴ったんだ。悪いのは俺だ…ごめんなさい』

 肩を落とし項垂れる息子に、母親は文字通り顔面蒼白になる。

 そして立ち上がり、湊と紺に向けて少年の頭を下げさせながら自分の頭を下げた。

『本当に申し訳ありませんでした!よく言い聞かせておきますので!!』

 一連のことに冷静さを取り戻した様子の湊が、ふっと力を抜いてうなずいた。

『はい。お願いします。二度と同じようなことはないように』

『もちろんです…!』

 さらに身を低くして、親子はその場を逃げるように後にした。

 その背中を見送って、湊はほぅと大きな息をつく。

『…オヤジ、ごめ…』

『謝んな』

 項垂れる紺の頭をがしりと掴んで、彼は無理やり上を向かせる。

『お前は正しいことをしたんだ。俺は紺を誇りに思う』

『…ウン。俺、オヤジがあの人殴っちゃうんじゃないかって怖カッタ』

 ぐっと唇を噛んで泣くのを我慢する紺に、湊は苦笑混じりに自分の頭をガシガシと掻く。

『あー、正直危なかったなぁ。幻がいなかったら手ぇあげてたわ。助かったよ、幻。ついでに卯月も』

 卯月親子の元へと寄っていき、幻の頭を撫でてやる。次に幻の父の肩に手を置いた。

『僕はついでなの?幻を連れてきてあげたのは僕なんだけど』

 不服そうに、幻の父鹿波かなみが眉間にシワを寄せながら言った。

『はいはい。ありがとうございました。いやぁ、しっかしすごかったなぁ。幻はお前にそっくりだ』

 感心したように何度もうなずく湊を無視して、鹿波は紺に笑いかけた。

『初めまして、紺くん。僕は幻の父親で、鹿波っていいます。よろしくね』

『よ、よろしくおねがいシマス』

 おっかなびっくりといった様子の紺に、彼はすこし悲しそうな顔をする。何故怖がられているのだろう。

『父さん、紺くんのこといじめちゃダメだよ』

 そっと紺の隣に寄り添って、幻が冷たい目で鹿波のことを見る。

『…幻が冷たい』

 衝撃を受けた鹿波を、無視された腹いせと言わんばかりに湊が嘲笑う。

『ざまぁ』

 それに無言で鳩尾に一撃入れて、鹿波は子供二人ににっこりと笑いかけた。

『いじめているつもりはないよ。紺くん、僕のこと怖い?』

 無意識だろうか。幻の服の裾をぎゅっと握って、彼は緩く首を振る。

『別に、怖くはない。けど…なんか、緊張?スル』

『な、なんで…』

 それはそれで複雑だ。血のつながりはないとはいえ、息子である幻には知り合ったばかりであんなに懐いているのに。

『そんなのどうでもいいでしょ。俺、紺くんと話したいから父さんは湊さんと話してなよ』

 さらりとあしらって、幻は紺と共に中に入ってしまう。

『…父さん…泣きそう…』

 項垂れる鹿波の肩を、湊がぽんぽんと叩くのだった。


 中に入って、紺が戸惑ったように外を指差す。

『イイノ?』

『いいの。それより、大丈夫だった?あの人、ひどいよね』

 先程の母親のことを言っているのだろう。言われたことを思い出して、紺は苦しそうに顔を歪める。

『ウン…でも』

 ふっと表情を軽くして、彼はへらりと笑った。

『幻…くんがかっこよくやっつけてくれたから、なんか、すっきりした』

『ならよかった』

 嬉しそうに笑うその笑顔を見て、紺の頭の中で何かが弾けた。目の前がチカチカする。

 急に押しだまった紺に、幻は心配そうな顔をした。

『紺くん?大丈夫…』

『幻ちゃん』

『え?』

 急に聞き慣れない呼ばれ方をされて、彼は目を丸くする。

『呼び方、幻ちゃんって、呼んでイイ?』

 興奮したようにキラキラと黒い瞳を輝かせる紺に、幻はおかしそうに笑った。

『もちろんいいよ。俺も、紺って呼んでもいい?』

『モチロン!』

 二人は、にこにこと笑い合う。幻が、紺の腕を引っ張った。

『そろそろ父さんたちのところ戻ろう。待ってる』

『ウン!』

 ようやく出てきた二人の息子の表情とお互いの呼び方の変化に、湊と鹿波は顔を見合わせ満足げに笑うのだった。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る