第2話 SAN値がピンチなんて現実ですか?
「ただいまぁ......まぁ誰もいないんだけど」
少し大きな二階建ての一軒家の鍵を開け、靴を脱いだ俺の言葉だ。16年生きてきた習慣というのは、あまりにも抜けづらい。
俺の両親が海外への単身赴任が決まったのは高校一年生の頃。海外になど行きたくないとごねた結果が、一人には大きすぎるこの家での暮らしだ。
当時は『ラノベとかエロゲの主人公じゃんやっふー!』と喜んでいた俺だが、高校に入り、友人を作ったりして気が付く。
俺の境遇や一人暮らしが意外と多いことに。そして彼女連れ込み放題じゃんと息巻いても、現実は変わらず、彼女のいない寂しい生活は今まで続いている。
ハンカチの用意は出来たか?俺はもうタオルで拭いてるよ。
救いといえば内向的すぎる趣味の俺にも広く交友関係があって、家での生活以外は忙しくも楽しく送っているという事だろうか。
今日も寂しく夕食を食べ、自室に籠る。そして目下ハマっているASMRに体をよじらせながら、ベッドの上で悶々としていた。
何、ASMRをご存知でない?はっはっは。面白いジョークじゃん。まぁASMRの素晴らしさを語る前に、少し俺の体質の話をしようか。
俺が他の人間と少し違うことは、新陳代謝が鬼のようにいいということだ。次の言葉は、耳が聞こえずらくて初めて耳鼻科に行った時の先生の言葉である。
「めっちゃ耳くそ溜まってますね。」
無慈悲にも思えるそんな返答に、子どもながら糞という言葉に反応した俺がこの後
「僕の耳にうんこあるの!? うんこ!? うんこやだああああああああぁぁぁ」
と泣き喚き、母は赤面、先生大爆笑となった事は、今でもかかりつけの耳鼻科の先生にこれでもかと、からかわれる。
耳かきは早くて2週間ほどに一度軽く、もしくは1~2ヶ月の後、しっかりとした専門機関で受けるのが好ましい。
だが、俺はその新陳代謝のせいで耳垢が、よく溜まる。しかも溜まるのが早すぎて自然な形で排出されない。
かさかさとしたそれが蠢く様は、想像しづらいだろうが非常に痒いのだ。なので1週間に1度耳鼻科まで足を運びからかわれながら、施術してもらうという日常が続いている。
そんな俺がASMRにハマったのは高校一年生の頃。You○ubeで動画を見ていて寝落ちした時だ。
何やらガサガサと耳をまさぐられる音にびっくりし、起きて画面を見ると、そこには1枚の可愛らしい女の子の絵。そしてセリフと耳を掻くような音が、響いていた。
俺は耳かきが好きである。いや、史上の喜びと言っても過言ではない。
だが、やりたいにもあまりにも多く、早く生成してしまう耳垢を奥に押し込んでしまっては、耳鼻科の先生に何を言われるか分からない。
意外とよく怒る耳鼻科の先生に、好んで怒られるような特殊性癖を持ち合わせていない。なので、擬似耳かき体験を日々していたのだった。
「はぁ......最高でした。」
惚けた顔でそんなことを言う男子高校生。控えめに言ってしんどい現実だ。それでも分かって欲しい。
なぜいいねは一回しか押せないのだ。コメントを残してはいるけど、なぜ応援方法がこれしかないのだ。
メンバーズシップにしようとは思ったけど、仕送りで親のスネをかじっている身だしさすがに踏みとどまったよ。偉い俺。
そして俺が聞いている、目下ハマっている動画主『猫に小判』さんの耳かきASMR。
どこか落ち着いた声色に、たまに出る地声での動画。そして更新ペースが鬼のように早い。だいたい夜の8時か9時には新しい動画が出ており、初心者とは思えないその技術と配信ペースで最近耳かきスト達の間でも評判だ。
「さてっと、今の動画をリピート......ん?」
ふと、俺は窓に違和感を感じた。俺が座っているベッドと、勉強机とは名ばかりのpc置き場とかしている間に備え付けられている窓。
そこから優しく夜風が俺の部屋へ舞い込んで来ている。
何も窓を開けていること自体は、別段不思議でじゃない。春は夜風が気持ちがいいなんて言うだろう?
だから最近では、虫が入る心配をしながらも窓を開けていることが多い。おかしいのはそれじゃなくて、俺のいる自室の窓から伸びる人影に違和感を感じたんだ。
「ここって、2階だよな......?」
それもそのはず。俺の自室は2階であり、そこから人影が伸びること自体ありえないのだ。2階に届くような壁もなければ近くにそれらしい電柱もない。
いつしか汗ばんだ体と、じんわりと体に滲む不安。体は熱いはずなのに、少しだけ体が震えるような気がしてならない。
「ま、まさか......な......?」
不測の事態に陥った人間は、その時考えうる最悪の行動に手を伸ばしてしまうことがある。
と、どっかのテレビ番組で見た気がする。この場合は窓に行って真偽を確かめることだ。
ゆっくりとベッドから降りる。ギシィと床のフローリングが軋む音が、部屋をこだました。いつもは気にしていないことでも、状況が揃えばそれは恐怖を掻き立てる材料になってしまうだろう。
「は、はは......。そ、そんなベタなことが......」
乾いた笑いが部屋から消えていく。そんなことを呟かないと、俺はもうダメかもしれない。生まれてこの方恵まれている方なので、霊とか超常現象にあったことない。
ゆっくり、ゆっくりとその場へと近づく。いつしか頬を伝う汗。手を出しては行けないと本能が告げても、足はなぜか吸い込まれるように窓に近づいていってしまう。
そして長く風に揺れるカーテンに手をかけ......。
思い切りそれを俺は引っ張―
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああ」
「きゃああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁ」
絶叫のデュエットである。脳内は冷静だが、体は正直で今なお叫んでいる。
「ちょっ!?大きな声あげるんじゃないわよ!」
「あわあわああわああわわわあああくぁ....」
俺が恐れを口にして大絶叫するのもそのはず。窓の外、少女が浮いていたからだ。そう、足は地面から離れ、ふゆふゆと不安定に浮いている。
大丈夫だ。まだSAN値は残っている筈だから。というか本当に浮いてるようにしか見えないこの現実。
誰か夢から覚ましてくれよ。お礼におすすめASMR教えるからさ。
「ちょっと、入るわよ!」
「あああわわわああわわわあわ」
こんな時でも口は動く様で、そんな言葉とも取れないような言葉を発している俺を置いて、少女は無理やり部屋に入る。ふぅと短くため息をつきながら、少し汗をかく少女。
ん、この女何処かで......。
「あ......!」
その少女は、ハンカチを渡したあの件の少女だった。綺麗なブロンドのハーフツインの超絶美少女。うん、制服もネクタイも見た時と同じだ。違うのは浮いてたぐらいか......。
ぐらいじゃねーよ! 人間の範疇をスキップで超えすぎだろうが!
しかし、少女は傲慢に、そして可憐に、その主張しすぎていない胸を強調しながら高らかに俺に言うのだ。
「人間、あんたに耳かきをしに来てあげたわ!泣いて喜―」
だがしかし、俺という人間は弱かった。というかすまん、SAN値切れたわ。あばよ知性。
「あ、母さん。どうしたの?川の向こうで手なんて振って、俺もそっちに―」
「行くなあああ!!? 」
放心状態で目の前の川の向こうに佇む母親のところに行こうとする俺に、少女は少しだけ涙を浮かべながらそう懇願しているようだったと視界の端で捉える。
母さん、勝手に殺してごめん。今度いいハムそっちに送るわ......。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます