第4章 1

 電報で祖父の卦報を知り、僕は再び、二度と踏まぬと決めていた故郷の土を踏んだ。

 家を出てから、五年の月日が流れていた。

 最初に僕を出迎えたのは、雪粒混じりの、身体を引き裂くような突風だった。

 凧遊びをする子供らの姿はない。

 川辺で寒鮒を獲る老人たちの姿もない。

 誰一人、表を歩く者の姿が見えない。

 まるで打ち捨てられた廃村のようなこの集落が、たしかに僕の故里だった。


 故郷一帯を襲った未曾有の大飢饉は、帝都の新聞でも、連日大きく取り掲げられていた。


 上野駅のプラットホオムでも、売られてきたらしい百姓娘が、啜り泣きながら引きずられていく姿を度々目にした。

 あの中に、ひょっとしたら、この村の生まれの娘も混じっていたかもしれない。

 ……一体、幾人の顔を知る村の者が飢えて死んでいったのか。

 幾人の顔を知る村の娘が売られていったのか。

 所々幹皮を剥がれ、白い生肌を寒風に晒している山の木々は、まるで野垂れ死んで野晒しにされた百姓たちの白骨のようだった。



 生家では、既に祖父の葬儀は終わり、遺骨は白木の箱に納められ、がらんとした仏間の中で、そこだけ場違いのように豪奢に飾られた仏壇の前に安置されていた。

 五年ぶりに会う父は、見る影も無く憔悴し、年老いて見えた。

 帝大に進学する際に挨拶にも報告にも訪れなかった僕を少しは叱責するかと思っていたが、父は僕を見て寂しそうに力なく呻いただけだった。

 墓場のように静まり返った家の空気。

 奉公人は全て暇を出したらしい。

 助けを求めて泣いて縋り付いてきた者も大勢いただろうに、祖父は自分の土地の小作人も、血縁の者さえも追い払い、家の門扉を堅く閉ざした。

 かつて天保の飢饉の折には、私財の大半を投げ打って救民に奔走し、幾千の命を救い名士と称えられた村代官も、祖父の長年の浪費のため、「今代官」を逆さに振ったところで大したものは出てこなかった。せめて所有の田畑を処分すればどれだけ近隣の窮乏を救えることかと父は祖父に相談したが、話を聞くと既に土地の大半は借財の抵当に入っているとのこと。愕然とする父に対し、そうでなくても先祖伝来の土地を、そうやすやすと他人の飯代のために手放せるかとにべもない祖父に、とうとう父は食ってかかったという。

 そんな中、祖父は卒中で突然倒れ、そのままあっけなく亡くなった。

 俺が死んでも土地だけは手放すな、という祖父の生前からの遺言を、父は躊躇なく破り捨て、手付かずのままの僅かな山林を売り払ったが、昭和の大恐慌で地価も下落している上にこの窮乏のために足元を見られ、ほんの二束三文程度にしかならなかったらしい。

 その僅かばかりを、暇を出す奉公人たち全てに配り、彼らの前で父は泣きながら手をついて詫びたといい、それを見て涙を流さぬものはなかったという。

 父は言葉にこそ出さないものの、元はといえば祖父の見栄のために帝都に遣わされたもの、学費だけで都会に立派な居を構えることのできる僕の就学についても、内心切り捨てたくて仕方ないのだろう。

 僕のこれまでの帝都での学生生活についても、父は何一つ問おうとしなかった。

 僕自身、怯えるように誰一人とも交流せず、賑やかな街へと繰り出すこともせず、ストームの馬鹿騒ぎに熱狂するバンカラ姿の級友たちを尻目にひたすら夜の闇を恐れながら孤独の下宿で勉学に打ち込んでいた花の高校・大学生活などに、取り立てて語れるものなどひとつもなかった。

 外の世界の何が恐ろしかったわけではない。寧ろ、それは嘗て目にしたことも無い、きらびやかで魅惑的な、未知の刺激に満ちた新世界に映った。

 しかし、そんな甘い誘惑ですら蝋燭の灯火のように吹き消してしまう、もっと大きな、得体の知れない底無しの深淵の怪物が、自分の中に産み落とされ、息を潜めている気配が常に僕を総毛立たせ、ただ一人部屋に篭もり震えている他は無かったのだ。



 祖父の仏前に手を合わせた後、母が僕を隣室に呼んだ。

 六畳ほどの普段は使われていない暗い部屋で、薄く埃の積もった畳の上に座る母は毅然としながらも随分と痩せ、小さく見えた。

 面立ちがよく似ていると評判だった姉の面影は、最早今の母の姿から窺うことはできない。

 僕と目を合わさぬまま、母は口を開いた。


「……もう、刀子のことは、忘れなさい」


 静かな声で、しかしはっきりと僕に告げた。

 ……遠くで父の咳き込む声が聞こえた。

 言葉を失っている僕の前で、淡々と母の言葉が続いた。

「おまえが、あの子をどう思っているかは聞きません。あの子は、もうこの家にはいないものです。おまえさえ、忘れてくれればいい。あの子のことは全て、私が墓場まで持っていきます。……良いですね?」

 たったそれだけ話し終えると、まるで止め処ない感情を堪えるように、母は膝の上に目を落とした。

 ……たったそれだけの言葉でも、僕を奈落の底に突き落とすには十分だった。十余年の間苦渋に満ちた煩悶と葛藤に喘ぎながらも僕の中で辛うじて死守し続けていた最後の矜持が、今この瞬間完膚なく引き剥がされたのだから。

 能面の表情は変わらないまま。しかし、その膝の上で母の小さな手は、震えながらきつく握られていた。

 姉の世話をしていた下女は、僕が家を出てからすぐに亡くなったという。それから今までずっと、母が一人で姉の身の回りの世話をしていたのだろう。


 気づかぬはずがない。


 母は、全てを知ってしまった。


 ……全て、何もかも知られてしまった。


 ――嗚呼っ!

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