第4章 2

 帰省して三日後、暗く閑散とした僕の家を律が弔問に訪れた。

 この大凶作の只中で、律の実家も決して無事ではないはずだが、久しぶりに顔を見る昔馴染が少し痩せたように見えながらも達者な様子なのは出来た婿殿のお陰だろうか。

 山田――律の家に婿入りしたので今では葛西と呼ぶべきか――はいよいよ大陸に出征することが決まり、今回はこちらに出向くことができなかったことを本人は心底残念がっていた、と律の口から詫びられた。

「それにしても、勝太郎さんもすっかり偉くなられましたこと。見違えてよ?」

「いや。律さんこそ、もう誰が見ても違えようのない、軍人の妻に御成りだ」

「ほほ。ああ、……こんな場面で申し上げるのも心苦しいのですが、その節は祝電をいただきまして、まだお礼も申し上げておりませんでしたわね?」

「いえ、恐縮です。こちらこそ披露宴にわざわざご招待いただきましたのにすみません」

 披露宴の後日、山田、いや今は葛西武蔵陸軍少尉から手紙が届き、新郎新婦が神妙な顔つきで並んだ隅に「どうだ貴様羨ましからうイヒヒ」と書かれた写真と、欠席したことを冗談交じりに詰る内容の彼奴にしては少し長い手紙が届いた。手紙の内容は、半分は新婚生活のおノロけ話、他は新妻との出向先の新居(舞鶴だそうだ)に改めて招待する旨記されており、後半は至って真面目、変に真面目なところは奴らしいといえば言えるし、奴にしては感傷的とも言える所感が記されていた。おそらく検閲の目を盗んでこっそり投函したのだろう。


「――ここだけの話だが、俺はまもなく大陸に派遣されることになるやもしれん。正直、俺は気が進まん。なんでも大陸では敵さん、町人の女子供や年寄りにまで銃を持たせて戦わせているっていうじゃないか。向こうではいったい誰が敵で誰がそうでないのか、ともするとわからなくなる、と大陸で戦って帰ってきた陸士の同期が話していた。俺も、もし実際目の前に年端もいかない女の子が鉄砲持って飛び出してきたら、そりゃ戦である以上、敵と見なさなきゃならんのかも知らんが、その時果たして俺が引き金を引くことができるか否かとなると、正直よくわからん。部下に命令しなきゃならん自分の立場を考慮すると、甚だ心もとない隊付さんだナと貴様は噴飯するかもしれんが、それが俺の正直な所感だ。俺にとっては、幼年と陸士で学んだことが戦争の全てだ。軍隊対軍隊の戦術しか知らんサ。この際はっきり言っておくが、もし我が師団の大陸遠征が決まったら、この先どう戦が転ぶにしろ、俺は多分生きて帰れんだろう。その時は勝っちゃん、悪いが律を宜しく頼む。ああ、くれぐれも手は出すなよ。出したら貴様、靖国の神殿からスッ飛んで祟りに行ってやるぜ。ア、これは冗談。まあ、何はともあれ、どうか達者でな。

 ――帝国陸軍第十六師団  歩兵連隊中隊付 葛西武蔵少尉

 追伸  姉上の御病気が一刻も早く治癒することを心の底から祈る。貴様、本当は姉上にぞっこんだろう? 俺の目は誤魔化せんぜ?」


 これは僕にとって唯一無二の親友がしたためた遺言状だ。おそらく山田は、生きて再び僕と会うことはないだろうと予知していたのだろう。


 僕は結局、最後まで山田に返事を書かずじまいだった。そして、山田と直接言葉を交わしたのも、彼の旅立ちの日が最後になったのだ。



 ……これはずっと後の話になるが、日米開戦の後、彼の部隊は大陸から南方に移駐し、レイテ島で全滅することになる。


 これも蛇足になるかもしれないが、彼は師団の実に九割以上が戦死したレイテの激戦から奇跡的に生還し、終戦後、律の故郷、すなわちこの村に永住した。彼の曾孫たちは後の時代において、彼らの物語を紡いでいる。僕自身は結局何一つ見届けることのない別に語られるべき物語だが、要らぬ親切のつもりで付け加えておく。



「ところで、刀子さんはご息災ですか?」

「ああ、……姉は、」

 律の問いに、僕はただ中庭の方へ視線を向けた。相手も、それで大体察したらしい。

「僕もこっちに戻って、まだ一度も顔を見ていません。姉との面会は、先日母から改めて禁じられましたので」

「それは、……ご心中お察しいたします。私も御母上にお伺いしたのですが、刀子さんとの面会はお許しいただけませんでしたの」

 寂しそうに律は顔を伏せた。


 しばしの間の後、率は俯いた顔を上げ、こんなことを話し出した。

「……実はお姉さまと私、この家にご奉公させて頂いたばかりの頃からずっと親友だったのですよ。身の程を弁えぬ奴とお叱りになられるかもしれませんが、そう、たとえるなら、宅の主人と勝太郎さんの間柄のような――」



 刀子と律には、雇い主の娘と奉公人という、明確な立場の違いがある。それも、村代官などとも呼ばれる近隣一の名士の家柄の息女である。本来ならば、見習いの若女中が気安く口など聞けたものではないが、刀子は色々な意味で風変わりな人柄だった。

 奉公人の中でも一番年若く新参者であった律は、とにかく四六時中先輩の女中やら時には雇い主から直々に叱責を受け、その度に陰に隠れては泣いていた。するとどこからともなくこのお雛さまは現れ、いつもにこにこ微笑みながら自分を優しく慰めてくれるのだった。

 実家は食うや食わずの貧乏百姓。それも一番上の娘と来て、歳の離れた弟たちの世話を焼いてばかりで二親に甘えたことなど一度もない。律は、何も言わずに優しく抱いて頭を撫でてくれる同い年の娘に本来の身分も忘れ、思わずその場でオイオイと泣いて泣いて泣きじゃくり、その胸に縋り付いた。そのうち、周りの目を盗んでは二人で色々な話もするようになった。程なくして、お互いに秘密の愛称で呼び合うほどの親友になった。

 刀子が離れに閉じ込められるようになってからも、暫く二人の交流は続いた。

 

「……トコちゃん?」

 物音を立てぬよう、そっと障子を開けて囁くように呼びかける。

 隙間から覗き込むと、狭い離れの部屋の中には少女が一人。

 窓際の文机にちょこんと座り、頬杖をついて本を広げている。

「リッちゃん!」

 親友の来訪に気づいた少女が、ぱあっと満面の笑顔を浮かべる。こんなふうに手放しの笑顔を向けられると、思わずこちらまで嬉しくなってしまう。

「いつも大丈夫なの? 今日もお仕事を抜け出してきたのでしょう? 見つかったらまたお叱りを受けてしまうわ」

「大丈夫、午後からは外仕事ってことになってるから誰も気づきやしないわよ」

 顔は笑っているが心配そうな声音の友人を、律は眩しそうに見つめる。長く伸ばした髪をおさげにまとめ、新橋色に控えめな夏草模様の着物の肩から垂らした姿は同性でもはっとするほど美しく愛らしい。ちゃんと居住まいを正してさえいれば流石名家の令嬢らしく凛としているのに、正面に回ってみるとその神妙さが自分で可笑しくて笑いを堪えているような顔をしているのが却って人懐こく、傍にいて心地よい。

「トコちゃん、また本を読んでいたの?」

「ええ。この間お父さまがこっそり持って来てくださったの。前からお願いしていた本なのよ?」

 嬉しそうに見せてくれるが、律はあまり字が得意でなかった。

 親友の祖父のことを律は大嫌いだったが、父親の方は少し好きだった。武家から婿入りしてきたとあって竹を割ったような気持ちの良い性格で、奉公人に対しても、叱るときは恐ろしいが、その後すぐにケロリとした顔で何事もなかったように笑顔で接してくれる。一度街にお供として連れて行ってもらい、帰りに甘いものをご馳走になったこともある。打たれたことも一度もない(意外なことに、士族の間では暴力沙汰は御法度に近かったらしく、どうも息子相手以外の殴り方を知らなかったようだ)。それに、実娘に対しても、祖父の目のある手前、表立って父親として接することはできないが、こうして今の律のように周りの目を盗んでは娘の欲しがるものをこっそり差し入れしたり、何か不便をしてないかといろいろと気遣っているようだった。

「また、あの詩人先生の本?」

 律が尋ねると、刀子は嬉しそうに頷いた。

 この詩人の書く世界の中の寂寥感と孤独感、そう言ったひとりきりの心象風景の中に差す光明のような遠いものへの憧れがとても好きなのだと、いつか友人は話してくれたが、律には難しく思えた。しかし、それはとても心惹かれるものにも思えた。

「でも、おかしな話よね。寂しさを、他の人の書いた寂しさで慰められるなんて」

 でも、その詩人の描く寂しさはとても美しくて、美しいものに憧れる寂しさを持つ孤独な者を遠い彼方へ誘ってくれる力を持っているのだ。勝手な解釈だけれど。

 そう言いながら、いつも刀子は障子の薄く開かれた向こう、本宅の一角を寂しそうに眺めるのだった。それが親友の抱える孤独と寂寥、そして光明の正体なのだと、律も気づいていた。

 それとなく指摘してみると、刀子は「うん、大好き」と何の臆面もなく答えたものの、「……どうしてわかったの?」と微かに頬を染めて首を傾げてみせるのだ。そんな友人の挙動など初めて見るので、律は少しだけ彼女の想い人に嫉妬した。律は彼にあまり良い印象を持っていなかった。

「やっぱり、変よね? 血を分けた相手を慕っているなんて」

 と友人は困ったように眉根を寄せる。

 何と答えて良いかわからず、

「いつから、好きなの?」

「多分、ずっと昔から。気がついたら、いつも彼のことを見ていたの。お母さまから近づいてはいけないって厳しく言われていたから、遠くから見ていることしかできなかったけれど」

 今も遠くに想い人の姿を見つめているような横顔だった。

「一度、勝太郎の方から話しかけてきたことがあったの。あの時はわたし、すごく嬉しくて、どきどきして。でも、どうしていいかわからなくて。……それで、怖がらせてしまったみたい。急にわたしを突き飛ばして逃げていってしまったわ」

 苦笑混じりに刀子は続ける。

「わたし、どうしても勝太郎に謝りたくて、今度はわたしから話しかけようと思って、でも、なかなか機会がなくって。一年くらい経って、ようやく二人きりになれる機会があったから、思い切ってとっておきの場所に連れて行ってあげようとしたのだけれど……あんなことになってしまって。嫌われてしまったわね」

 そういって寂しそうに笑う。笑うことしかできない友人を、律はとても哀しく、切ない愛おしみを感じた。


「――ねえ、リッちゃん? 実はわたし、昨日こっそり勝太郎の部屋に忍び込んでみたの」

 悪戯小僧の笑顔で、親友に打ち明け話をする、心の底から楽しそうな刀子の様子に、律も内緒話を囁き交わすように身を乗り出す。

「この先生の本の中で一番のお気に入り、こっそり勝太郎の部屋に置いてこようと思って。そしたら……んふふ」

「なになに、聞かせて?」

 勿体付ける友人に、焦らさないで教えてと、続きをねだる律に、刀子は「んふふ」と嬉しそうに笑うばかりでなかなか教えてくれない。しかし、心の底から幸せそうに小さな意地悪をする友人の様子に何故か律も自然と笑が溢れる。

観念した友人の口からはただ一言、

「恋文の返事、先にもらっちゃった」

 と意味深長な返事だけ。

 ところが、不意に刀子は幸せそうに細めていた眼差しを伏せ俯いた。

「……でも、多分もう同じことはできないわね。その後戻る途中でお祖父さまに見つかってしまったから」

 その場でものも言わずに打擲され、後で母の口から二度と勝太郎には近づかせないと、厳重に言い渡されたらしい。

「ひどい……」

 口を覆って言葉を失う律に、刀子は優しく微笑みかける。

「いいのよ、言いつけを破ったのはわたし、悪いのはわたしなのだから。でも、……逢いたいな」

 障子の隙間から見える弟の部屋を見つめながら、刀子は微笑んだまま。

「――『ふらんすへ行きたしと思へども

 ふらんすはあまりに遠し

 せめては新しき背廣をきて』――」

 微笑んだまま、歌でも口ずさむように、大好きな詩人の一節を口にする。

 やがて、ぽつりと、

「……遠くに行きたいなぁ。ずっと、遠くに」

 寂しそうに呟き、静かに笑う友人の顔が、律には、ぽろぽろ涙を零し泣いているように見えた。

「――一度でいいから、笑った顔、見てみたいな」



「……後でトコちゃんに怒られてしまいますね。でも、このままではお姉さん、ずっと自分の気持ちを抱えたまま、寂しさを抱えたままでいてしまうから」

 苦笑混じりに当時のことを懐かしそうに語る律。

「その後すぐ私もこっそり通っているのを大旦那様に知られてしまって……それから一度も、お姉さんのところに通うことができなくなりました。トコちゃん、今ではどうしていることか」

 ほうっと息を吐いた後、僕の顔を見つめながら。

「お姉さんは、あなたのことが好きだったのですよ? 子供の頃からずっと、……一人の男性として」

 律の話を、僕はただ黙って聞いていた。

 暫しの沈黙少し掠れた声で言った。

「……知りませんでした。姉が、僕のことをそんな風に思ってくれていたなんて」

 嘘偽りなく僕は答えた。律が回想し語っている女性は、僕の知る姉ではない。

 

「――勝太郎さん」

 律は表情を改め、僕に深々と頭を下げた。

「あなたに……いえ、お姉さんにも謝らなければならないことがあります」

 律が顔を上げた。その目は少し、涙ぐんでいるように見えた。

「十年前の夏のこと、……勝太郎さんが崖から落ちて怪我をした日の出来事です。もし、私が奥様にちゃんとあの時のお姉さんのことを話していれば、トコちゃん、今みたいな非道い扱いにならなかったんじゃないかって、そればかりが悔やまれるのです」


 ――十年前。

 今でも鮮明に思い出すことができる。思い出すことは容易にできるが、敢えてそれを封印してきた、忌まわしい罪の記憶。

「その後も何度も奥様にお話しようと思いました。でも、あの日を境に、奥様は頑としてお姉さんのことに耳を貸していただけなくなったのです」

 昔語りの続きを、律は始めた。

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