第3章 4

 ……下女たちが眠っていることを確認し、足音を殺しながら離れへと続く渡り廊下を進む。僕の中ではほとんど薄らいだ恐怖とはいえ、姉との接触は今でも堅く禁じられている。

 離れの廊下には薄く土埃が積もっていた。世話役の者たちの通った部分だけが獣道のように、てかてかと月光を反射している。

 しん、と静まり返った夜の空気。

 姉が閉じ込められて以来、一度も訪れたことのない、小さな部屋。

 まるで、何処か知らない厳かな仏堂にでも迷い込んだような、目眩にも似た奇妙な感覚を覚えた。

「お姉さま……」

 障子の前で、声を潜め、囁くように呼びかける。

 返事はない。

「刀子姉さま、勝太郎です」

 もう一度、少し大きな声音で呼びかける。

 やはり、返事はない。

 ……眠っているのだろうか。

 軽く戸を叩きながら、もう何度か呼びかけてみる。

 耳を澄ましてみるが、寝息は聞こえない。人がいる気配すら、しない。

「……お姉さま?」

 そっと、障子を開ける。

 青白い月明かりに、部屋の内部が照らし出される。

 小さな箪笥と、鏡台。布団の端が、僅かに視界に入った。

 足音を忍ばせ、部屋の中に足を踏み入れる。

 畳の上に敷かれた寝乱れた布団。

 ……そこに、寝ているはずの姉の姿はなかった。

「お姉……―――⁉」

 突然、背後から何者かに抱きつかれる。

 一瞬、獣かと錯覚するほどに乱暴に腕を掴まれ、肩を押さえられ、抱きつかれるというより、組み付かれるに近い。

 忍び漏れる、女の笑い声。

「お姉さま⁉」

 振りほどこうとしても、その白い塊は執拗に取り付いて離れない。

 白痴じみた笑い声と、水を吸ったように重い長い髪が、動きを封じるように纏わりつく。

 髪を振り乱しながら首を振り、しがみついてくる、その女の顔は見えない。

 暫く格闘を続けていくうちに、ちら、と一瞬女の顔が垣間見えた。


 女と目が合う。―――わらい。


 忘れていた忌まわしいもの。封印していた負の怪物が再び僕の胸中に蘇る。

「ひっ―――」

 その瞬間、いきなり女とは思えぬ凄まじい力で押し倒された。

 硬い敷布団の上に身体を叩きつけられ、きん、と脳天に鈍痛が響く。

「痛ぅっ!」

 四肢を無防備に投げ出した僕の上に、女が馬乗りになった。

 月光に照らされ、初めて目の前に女の表情が浮かび上がる。


 ……全身に、戦慄が走った。


 これが、……血を分けた弟を見る姉の目か?

 それは、かつて村中の男たちが姉に向けていたものと同じ、血肉に飢えた獣の目だった。

 抵抗を失し、目の前に投げ出された餌食を、その女は、貪欲な歓喜に両目を赤く染めて見下ろしていた。

 姉に組み敷かれ、見下ろされながら僕は自分の不明を、愚かさを悟った。

 ……ああ、何も終わってなどいなかったのだ。僕は自分の犯した実姉への欲情と許されぬ悪戯への倫理的悔恨と、それらに纏わる忌まわしい記憶を都合よく脇に追いやり見ないふりをしていただけで、同じ背徳の遊戯を伴にした怪物は一度占めた快楽の味をひと時たりと忘れてはいなかったのだ。そして人知れず闇に潜みじっくりと悪夢をコク味たっぷりに熟成させ、今が頃合とばかり獲物を誘い、今まさに組み敷いた餌食が浮かべている恐怖に歪んだ表情さえも、享楽の酒肴として今からゆっくり骨も残さずしゃぶり尽くすつもりに違いない。

「――勝太郎……」

 女の青白い顔の中で、真っ赤な蛭が三日月のように蠢く。

「……どうして来てくれなかったの? ずっと待っていたのよ? 暗ぁい、暗ぁい、陽も射さぬこの部屋に閉じ込められて」

 女の視線が全身を這いずり回る。それは食指でなぞるように質量を持ち、まるで味わうように、ゆっくりと獲物を嬲る。

 闇に目の慣れた視線の先で、女の夜着を持ち上げる豊かな双丘の頂が、ぷっくりと隆起しているのが見て取れた。

「……ずっと呼んでいたのよ? 一人ぼっちで、声を嗄らして」

 先ほどの組み合いで、真っ白な女の襦袢は乱れ、左肩が、胸元が大きくはだけ、青白い肌が覗いている。それなのに、まるで恥らう様子もなく笑みを浮かべ続ける女は、扇情的なものよりも、不吉な魔性のものを思わせた。

「……ずっと見ていたのよ? お前が、あの部屋に閉じこもっても」

 女の纏うぬらついた気配が、次第しだいに増していく。

女の肌が、次第しだいに熱を帯びていく。

「堅く雨戸を閉ざしても……」

 それとともに、恐怖が、忘れかけていたあの忌まわしい感情が、腹の底から鎌首を擡げ始める。

 高く熱く隆起を始める僕自身が幕営を張り姉の夜着を押し上げたとき、ずちゅぅっ、と湿っぽい感触が茎に当たった。どうやら下着も何も身につけていない夜着一枚を纏っただけの姉から溢れた蜜が浸透し、ある種の被子植物の受粉のように僕の雄蕊に至るまでだらだらと滴り濡らしているらしい。

「お姉様は見ていたのよ? ……お姉さまは、ちゃあんと、知っていたのよ?」

 一際大きく笑う、その笑顔には、目を逸らさずにはいられぬ、血も凍るほどの壮絶な狂気が浮かんでいた。

「……姉……さまぁ……?」

 からからの喉を引き絞るように、声を出す。

 ぴた、と女の笑い声が止んだ。

 ゆらぁ、と、その笑みを崩さぬまま、ただでさえ大きめな瞳を見開いた双眸が僕の顔に近づいてくる。

「勝太郎……」

 伸ばされたか細い手が、頬を撫で、鼻を撫で、唇を撫で、甘い、つんとする女の匂いが脳髄を撫でる。

「っうあ、……あ、お姉さ、ま」

 一頻り顔をなぞり終えた指先は首筋から下へ流れ落ち、つぶらな胸の隆起を確かめるように二度三度、四度五度とその周囲にゆっくりと円を描いて臍へと移行し、窪みを中心に数度上下を行き来すると、その三寸下の茂みを掻き分け、その先へと至った。

 奇しくも、二人同時にごくりと喉を鳴らす。

 ひやりとした冷たい手が焼けるような鉄柱をそろりと握り締め、具合を確かめるようにゆっくりしごき始める。

「……可愛い子。知らぬ間に、もうこんなに大きくなって……大きくなって……大きく、なって。あははは! まだまだ、天井知らずに大きくなるみたい」

 女の匂いが、五体の感覚を麻痺させる。痛みに似た痺れが、身体中の管という管を隅々まで走る。

「……さあ、始めましょうよ、勝太郎?」

 僕の顔から離れた青白い両手が、女の襦袢に掛けられる。

 するする、と、女の身体から這いずり落ちていく薄衣。

 月明かりに、露わになった女の裸体。 

「いつかお前がひとりでしていた、夜の続きをしましょうよ?」

 その姿を目の当たりにした勃起が、一際大きく脈動した。

「お姉さまとしたくて、今夜ここに来たのでしょう?」

 生まれたままの姿を曝け出した姉は、未だあどけなさを多大に残していた夏の日の少女の健康的な未熟を、程よく熟れた柘榴のような汁気滴る艶かしさに変えていた

 まるで今しがた脱皮を終えたばかりの淫らな白蛇のように瑞々しく美しい肌を、仄明るい月光の下にまるで惜しげもなく青く白く曝している。「さあ、始めましょうよ?」

 もはや僕は抵抗を試みる意思を全て剥奪され、また自らも屈しかけたが。

「蛇のような遊びの続きを」

「――っ⁉ なぜ……?」

 それは、僕が初めての自涜の際に興じた妄想中の台詞であるはず。

 なぜ、その台詞を現実にいるはずのお姉さまが⁉

 しかし、そういった疑問ももはや言葉にならず、それ以上追求することをも僕は最早放棄した。

 その様子を嘲笑うように見下ろしながら、僕の上で青白い月光に浮かび上がる白蛇は、真綿の身体でじわじわと獲物を甘く縊りにかかる。

 死毒を含んだ吐息が、耳元にかかる。首筋にかかる。

 身体中から発散される熱が一点に集中し、むくむくとこみ上げる。目の前でとぐろを巻く女の方へ向けて、全身の血液が脈を打つ。

「あはは、本当に大きな蛇が遊びに出てきたわ! ……涎まで垂らして、もう辛抱できないの?」

 そう言って、姉は僕の腰を抱え込むように両足を絡めてくる。

「もう何処に行こうと、私からは逃げられないのだから。……ねぇ、勝太郎?」

 僕の目を覗き込みながら、遊戯への期待に目を輝かせ、姉はにっこりとわらうのだった……。



 ……鎮守の森の蛇姫は、大の男など、たやすく飲み込んでしまう。

 そうして幾日も幾日も、臓腑の中で咀嚼され、身も心も恐怖も情欲も、どんな禁忌ですら、骨も残さず溶かしてしまう。


 翌早朝、僕は生まれた家を、育った村を出た。


 もう再び、この家には戻るまい。そう誓った。




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