第3章 3

 山田が去った後の二年間は、まるで凪いだように穏やかな日々が過ぎた。

 親友の不在は僕の学校生活を寂しいものにしたが、もとより人間関係にさほど依存していたわけでもなく、二年後に控えた高等学校進学に向けてただ一人黙々と受験勉強に明け暮れる毎日を送った。

 何よりも僕を心底安堵させたのは、それ以来あの怪物の悪夢のような誘いがすっかり影を潜めている、ということだった。

 これで悪夢の日々は、悔恨に苛まれる毎日はようやく終わったのだと、僕は心の底からほっとした。

 祖父の命令により、僕は故郷から遠く離れた帝都の第一高等学校入学を目指すこととしていた。父は気が進まぬ様子だったが、たとえ身内であっても、この村で祖父の意向に逆らえるものなどいない。それに、僕はこの命令を両手挙げて歓迎した。祖父の意向に従い一高、そしていずれ帝国大学へと進学すれば、もう当分はこの村に帰ってくることはない。僕にとってただ忌まわしい思い出しか存在しないこの故郷から、全てが風化するに十分な時間離れることができるのだ。

 巷では大きな疑獄事件や著名な作家の自殺報道で騒いでいたり、大陸の方でも不穏な空気が聞こえてきたりと世の中に何か大きなうねりが訪れようとしていたが、それら世相には一切目を向けず、ただひたすらこの村を離れる日を夢見ながら勉学に勤しんだ。

 本当に凪の海のような毎日だった。

 ……その後に訪れる地獄のような荒天を彩るため下準備の裏方に潜んでいた怪物が、淫らにほくそ笑んでいるとも知らず、愚かにも僕は有頂天になっていた。



 そして二年後、僕は無事、東京の第一高等学校に合格した。


 進学が決まると、大勢の顔も見たこともない分家筋の者たちが祖父の元を訪れ、かつてない活気が家中を包んだ。

 一高といえばナンバースクールの筆頭。いわば将来を約束されたようなもの。祖父の言いつけ通り、僕はこのまま帝大へ進み、そこで法律を学ぶこととなっている。法律家になれ、というのではない。祖父が望んだのは法学士という、名家の次期当主、つまり自分の血を引く孫に相応しい箔をつけたいだけ。学士と名が付けば医学士だろうが文学士だろうがさして気に留めなかったに違いない。

 僕自身もその意向に何か不満があるわけでもない。故郷を離れることができるのなら進学だろうと入営だろうと構いはしない。一高さえ卒業してしまえば帝大には無試験で進むことができる。最低でも六年はこの村から離れることができるのだ。

 日を置かずに訪れる親戚の者たちの慇懃な世辞とその度に毎夜のように催される祝宴の酒に上機嫌に酔った祖父は、初めて僕を褒める優しい言葉を皆の前で口にした。

天下の一高に進んだものなど、郷ではまだ一人もいない。そう言って、祖父は僕に杯を勧めた。

生まれて初めて口にする酒と、初めて抱いたささやかな自尊心に酩酊し、僕は数年ぶりに、安らかな開放感を味わった。

 束の間だけ、姉のことを忘れられた。

 恐らく僕の生涯の中で最も平穏な一時期であったろう。



 家を出る前夜、祖父たちへの挨拶を済ませ、厠に寄った後、暗く冷たい廊下を歩きながら、ぼんやりと中庭を眺めた。

 凍てついた夜の冷気は足袋を履いた上からでもぶるりと身を震わせ、吐く息は青白い月明かりの中でたちまち白く凍る。

 この数日、忌まわしい夢にうなされることもなく、ぐっすりと眠ることができたせいか、随分と身体が軽い。気持ちにも余裕が出来たためか、毎日見慣れている中庭の風景が、この夜は特別澄んで見えた。

十三夜の小望月の月明かりが、庭のあちこちに融け残った雪の残渣に淡く反射し、夜の静寂を、一際冷たく停滞させていた。

 ふと、足を止める。

 雪の笠を被った南天の実や、こもを巻いた松の茂みの間に瓢箪型の小さな池があり、春夏秋には睡蓮の丸い葉の間から時折鮒などが跳ねる涼しい水音が夜の静寂に花を添えていたが、今は真っ白な雪と氷に蓋をされ、静かな冬の眠りに就いている。

その向こうに、ぽつんと姉のいる離れが目に入る。

 あの白昼夢を見て以来、僕は極力中庭の離れが視界に入らぬよう注意して生活していた。

 いつまたそろと障子が開かれ、薄暗い部屋の中からこちらを伺う姉と目が合い、淫らな悪夢の中へ引きずり込まれてしまうかと気が気ではなかった。そんなやや現実離れした展開を、認めたくはないが内心待ち望んでいる気持ちも自分の中に少なからず存在し、中庭の小さな庵は、いうなればあられもない姿を僕の前でさらけ出した姉の肉体そのものであるようにも思え、呑気な喩えを持ち出すならば混浴の湯に入ったところ先客が妙齢の美女一人きりであった時のように、それとなく気を惹かれながらも努めて視界に入らないよう注意しなければならなかった。

 しかし二年前の親友との別離以来、例の悪夢に誘われることも徐々に減り、また、難関志望校受験に向けた勉学に日々を追われ、余計な思考にかまけている暇などない多忙に追われていたため、自然と意識の俎上から除かれていたのだった。

 今になって思えば、当時の自分は一体なぜあれほど怯え暮らしていたのだろう。

 明日になれば僕は帝都へと旅立ち、しばらくは故郷の土を踏むこともない。

 ……姉に、会いに行こう。

 僕は、踵を返して離れに向かった。たった一言、姉に別れの挨拶をしておきたかった。


……僕はこのとき、あまりに軽率だった。先刻身内の者たちとの送別会で周囲に煽てられ少しだけ口にした酒の酔いも手伝い、また、まもなく始まる都会での新生活を控え、その期待と喜びに有頂天になっていた。


 この油断を誘うために敢えて怪物は僕を泳がせていたのだという危惧と警戒に思い至ることもなく、取り返しのつかぬ泥濘の中に自ら足を踏み入れたのだった。

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