第2章 2

 赤子は、一度も泣こうとしなかった。


 空腹を訴えることも、排泄を催した際も、おくびの不快を示すために泣き声一つ上げることもなく、どういうわけか母だけが気配で察しそれらの世話をしていたが、他の者達には、ただ赤ん坊が始終ニコニコと微笑ましく笑みを浮かべているようにしか見えなかった。思い切って心を鬼にし、軽く平手で頬を張ってみた。すると一瞬きょとんとした表情を浮かべた後、またケラケラと笑い出す。

 下に年の離れた弟妹が三人いて、多少は子守を弁えている父は真っ先に我が子の異常に気づき蒼白になった。よく泣く子の方が余程健やかに育つというのは、腕白過ぎて手がつけられなかった末の弟を見てきているので知っている。しかし泣かずに笑うばかりとは。

 直に医者を呼ぼうとする父を祖父が止めた。この先どこまで無事で生きるか分からぬものを下手に人目に晒すものではない。我が家の不栄誉となるかもしれぬではないか。

 耳を疑う舅の言葉に父は目を剥いたが、祖父は有無を言わせなかった。


 例の産婆は、あの夜以来、まるで物に憑かれたように人が変わった。

 もともと寡黙だったものが、急に何か鬼気迫る様相となり、目玉ばかりをぎょろつかせ、集落の至るところを徘徊しては、誰彼構わずあの夜のことを吹聴して回った。

 ――長者の娘が蛇の子を産んだ。真っ白な肌に鱗を光らせ、赤い舌をちろちろさせながら娘の股から這い出てきた。

 ――これというのも長者の当主が、鎮守の祠を潰したからだ。祠に住まう姫神様の祟りを受けたに違いない。

 ――ああ恐ろしい。あの赤子は必ず、次の子を喰らうぞ。長者の家に生まれた次の子を、その次の次の子を、必ず喰らうことになるぞ。

 村人たちは仰天した。老婆の繰り言の内容にではない。相手は近隣随一の名士。かつて天保飢饉の猛威の折、蔵の全てを開放し、家財の全てを投げ打って、自分らが食うに事欠くのも厭わず、救民の為に総てを捧げ、その功認められ時の領主より苗字帯刀の栄誉を賜ったという、村にとっての大恩人、同時に郷里の誇りである長者の家。それを謂われなく誹謗中傷するとは何事か。

無論、一番肝を潰したのは産婆の家族であった。ただでさえ日頃特に目をかけて頂き足向けて寝られぬような相手に、よりによって恩を仇で返す真似をするとは。おまけに、鎮守の祠と聞いても、既に村人皆、はてな? といった塩梅だが、そもそも合祀下令の際、いつものように胡麻を擦って、今に取り潰された跡地を御国に適当な名目で安く買い叩かれるのではないか、などと耳打ちしたのはこの家の主人なのだから。

程なく老婆は家の者たちに取り押さえられ納屋に監禁される運びとなったが、既に噂は村の端まで知れ渡り、当の長者の家の者の耳にも届いていた。

 しかし、村に持ち切る噂話も頭から否定することはできない。何しろ、あの夜生まれた赤子が明らかに普通ではない様子でここに居るのだから。

 赤子は決して泣かず、ただ笑っているのだ。

 汚れひとつもない純真無垢な赤ん坊の笑み。それは見る者さえも思わず釣られて笑みを浮かべてしまうものだ。

 しかし、どんなに福々とした笑顔であっても、例えば薄暗い古民家の梁に掛けられた恵比寿大黒の笑い面を独り延々と凝視し続けて、やがてじわじわと平常心を蝕む得体の知れぬ恐怖を一片も覚えずにいられる者が、果たしてどれだけいるだろうか。常軌を逸した陽の感情というのは、下手な無表情、陰の感情よりずっと見る者の心胆寒からしめる。

 もしや何か先天的な負担を受けて生まれてしまったのではないか。

 しかし赤子の眼差しだけ見れば、なんら生まれつきの障がいを負っているようには見受けられず、それどころか、決して身内の贔屓目だけでなく、寧ろ普通の赤子よりもずっと美しく秀でているようにさえ見える。

 ただ、「わらい」以外の感情を母親の腹の中にうっかり忘れてきてしまったのかと思うほど、この赤子は他の表情を浮かべない。


 ――もし、この赤子がこのまま成長したならば、一体どんなモノに成るのか。


 肥立ちが落ち着いたばかりの母は号泣した。父はただ途方に暮れ母の肩を抱くばかりで、祖母は仏間で念仏ばかり唱え、祖父は腕を組んで黙っていた。

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