第2章 1


 僕は、「わらう」という事を知らない。


 わらい。

 それが一体どんな感情から来るものなのか。僕は一度も感じたことが無い。物心つく頃までは、何か物事が起こる事起こらぬ事に一々顔を歪めて唸り声を発する周りの大人たちの感情の由来が、腹が立つでもなしに唇を歪め歯を剥き出しにし呼吸を乱す友人たちの挙動が、僕は不思議でならなかった。

 笑うことしか知らぬ姉に、笑うことを知らぬ弟。あの姉弟、長者の家娘の腹ン中で何か掛け違えて生まれたンと違うかなどと、そんな陰口を耳にしたこともある。

 わらい、とは何なのか。それを常に絶やさぬ姉の姿を追ううちに僕にはますます不可解な思いが募るのだった。

 楽しい時に、嬉しい時に、姉は笑った。

 きっと哀しくて、寂しくてたまらないであろう時も――姉はわらった。

 まるで笑いの面で素顔を隠しているかのように。

 しかし、不意に姉のわらいの仮面の表側にきっと本当の感情が垣間見える一瞬もあった。

 それがますます僕を混乱させた。わらいとは何なのか。姉のわらいの面は、果たして裏か表か、どちらが面なのか。


 だが、あの出来事で垣間見た姉の笑顔。

 それは、夕暮れの河畔で垣間見たわらい。そして、あの忌まわしい夏の出来事で僕に圧し掛かりながら浮かべていたわらい。


 あのわらいが、作り物の仮面の裏に秘めた笑いの素顔というのなら、僕が今まで慕い追い求めていた姉とは、果たしてどちらの姉なのだろう。どちらが本当の姉なのだろう。



 ……そんな姉の出生に纏わる秘話がある。


 姉が産まれるとき、それは大層な難産だったという。

 早産の上に逆子ときて、母は二日二晩苦しみ抜き、最後には息む気力も尽き果て、母自身が生まれる際も分娩を請け負ったという村では腕の知られた産婆でさえ、母か子かどちらか残ればめっけもん、とびっしょり掻いた汗を拭いながら憔悴しきった父たちに告げたそうだ。

 祖父はもう赤子は死んだものと諦め、祖母はひたすら仏間で祈り、父は産婆に取り縋って、どうかどちらも、どうか、どうかと懇願した。

 


 三日目の晩。

 突如屋敷中に響きわたる悲鳴に、疲れ果て傍の間で船を漕いていた者たちは飛び起きた。

 皆押取り刀で産褥の場に駆けつけると、布団の上で横になった母は精根尽き果てた態で真っ白な顔で失神していた。……しかし、その寝顔に浮かんだこの上もなく安らかな笑顔が全てを物語っていた。

 キャッキャと笑う声に振り向くと、部屋の隅で裸のまま仰向けに寝転んだ赤子が手を叩いて笑っていた。

 生まれたのは女の子だった。

 安堵のあまり皆その場に膝をつき、父は泣きながら赤子を抱え上げ母のもとに駆け寄ると、その手を握り締めながら目を閉じたままの母の胸に抱かせようとした。

 祖母も神仏に感謝しながら父の腕の中で笑う赤子の様子に涙を浮かべ顔を綻ばせる。

 ……祖父一人だけが立ち尽くし、憮然と腕を組んだまま思案していた。

 ――なぜ赤子があんなところに?

 臍緒を始末して産湯に浸からせてやったのなら、すぐに母の胸に抱かせてやるのが本当だろうに、何故まるで火のついたものを慌てて放り出したように産着も纏わず部屋の隅に転がされている?

 未だ失神したままの娘に縋り付く妻と婿を尻目に、そこまで訝しんだ祖父は、やがて激しい怒りに震えた。

(まさかあの産婆、生まれたばかりの赤子を畳に投げ捨ておったのか⁉)

 激昂し、辺りを見回した祖父は、襖の後ろで何故か隠れるように震え縮こまる産婆の姿を見つけ引きずり出した。

「蛇じゃ……」

 祖父に襟首掴まれ引き立てられた産婆は、放心したようにブツブツと判らぬことを呟いていた。

「縫ちゃんが……蛇の子産みよった」

「志乃……さん?」

 娘に寄り添う祖母が戸惑いながら産婆の名を呼ぶと、産婆はきっ、と祖父を睨めつけ、

「長者の旦那さんが因業働いたで、孫に報いたんじゃて! 可哀想に……可哀想に。この子、今に、今に……」

 皆まで言わせず、祖父はものも言わずに産婆を打擲した。産婆はヒィっと悲鳴を上げた。

「志乃さん」

 再び手を振り上げる祖父を宥め、父は産婆に尋ねた。

「一体、何を見たんです?」

 ……その後の産婆の話す内容は、まるで要領を得なかったそうだ。

 ただ、その話からわかったことは、赤子が生まれた直後の状況。

 赤子は取り上げた際も、産湯に浸ける間も、産声ひとつ、泣き声ひとつあげず。

 尋常でない様子に何か赤子の命に関わる危機的なものを感じ、脈を採ろうとしたところ、突然赤子はぱっちりと真ん丸な目を見開き、産婆を見て、


 にっこり、わらったそうだ。


 とても無垢で無邪気で、実に子供らしい――しかし到底、生まれたばかりの人の赤子が浮かべる笑いではないと、産婆は直ぐ感じたそうだ。

 全身が総毛立った。

 悲鳴を上げ、恐怖のままに思わず盥のお湯を蹴飛ばし、赤子を放り出した。畳に落とされても、赤子は悲鳴ひとつあげず、ただキャッキャと笑っていたという。

 それでも顔を上げられない。顔を上げると、すぐ傍で赤子が自分を覗き込んでいて、にこにことわらっているような気がして恐ろしくて――。


 辛うじて、そこまで意味のわかるようなことをぶるぶる震えながら話して、産婆は逃げるように帰っていった。

 無口で頑迷なところはあるが、それなりに愛嬌のある婆さんが、まるで人が変わったような今さっきの様子に、祖母と父は言葉を失い、祖父もフンと鼻を鳴らしながらも動揺の顔色を隠すことはできなかったという。

 改めて、腕の中の赤子を覗き込んでみる。相変わらずニコニコと笑う赤子の様子に、思わずこちらも釣り込まれてしまいそうになる。しかし、この部屋に入ってから、誰か一度でもこの子の産声を耳にしただろうか。そして、産婆の言い残した「蛇」とは一体何のことか。

 とはいえ、そもそも赤子の笑うのが、一体どうして恐ろしいことがあるか、その場にいた皆薄気味悪く思いつつも首を捻っているうちに十日が過ぎ。


 ……赤子の異常さは、誰の目にも明らかになりつつあった。

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